弟子のSです

武術の稽古日誌

観察する稽古さらにつづき

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水曜稽古で句会の下見に行った。次回の集合場所はJR日暮里駅近くの天王寺というお寺である。そこにおわします、菩薩像をスケッチ。

f:id:porcupinette:20180322194107j:plain 「弥勒半跏思惟像」

まずは好きなだけ凝視し、描けると判断したところで実物を見ずに描く。

f:id:porcupinette:20180322194115j:plainby 師

f:id:porcupinette:20180322194044j:plainby S

スキャンの練習も積み、今回の私はわりと見たまま描けた感触が、つまりいささかの自信があったのだけれど、師のに比べたらやはり依然デフォルメというか「私風味化」が激しい。これが実技の稽古で「目の前で手本を見せても、頭の中で別物に変換してしまう」と指摘される所以であろう。
あと、文字は見る対象外という指示を聞き漏らし、文字をもスキャンしようとしていた。そのうえで頭に定着したのがこれだけ、という、いろんな意味でのお粗末。

次に、実物を見ながら写生した。

f:id:porcupinette:20180322194132j:plainby 師

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実物を見ずに描くのと見て描くのとで私の絵が全く別物になるのに対し、師の絵は初見で脳に定着させたものと実際に見て描くものの差が少ない。なぜこうした違いが出るのか。

この日ネットの「ほぼ日」で読んでいた画家の山口晃の技術論に、見ることについて次のように語られた箇所があった。(抜粋)

「リアルなもの」こそが、絵描きの「よすが」になってくると思います。(「リアル」でなく)表面的な「リアリティ」のほうが、だんぜん形にしやすいんです。記号的ですから、共感も得やすいでしょうし。しかし「リアル」の抜け落ちた、「リアリティだけでできたもの」を世の中では「詐欺」と呼ぶでしょう。

本来わたしたちはすべてを等価に見ているはずなんです。意味で優劣をつけず、すべてを等価に。そうやって「見」ないと絵というのは、描けない部分があります。そして、そう「見る」ためには、描く対象から意味をはずす必要がある。

対象を前景化させず平坦に見ること、と言っていた。むずかしいが、自分の何が見ることを妨げているかはわかる。

「弥勒半跏思惟像」、句会に参加される方は興味があれば当日探してみてください。

スケッチを通してこの菩薩像そのものにも興味が湧いた。男なのか女なのか、性というものを超えた感じがする。すると後日、白洲正子の『両性具有の美』という著作を手にする機会があり、ページを開くとそこに「弥勒菩薩半跏思惟像」の写真が載っているのだった。こうした偶然には驚かない。これは進めのサインだ。