弟子のSです

武術の稽古日誌

死と踊れ

組手メーター: 3|46|300

この長距離走のような稽古について、師に「私を戦闘不能にしようとして取り組んでますか?」と尋ねられた。私は「1本取られるまでの時間を少しでも長引かせようとしてやってます」と答えた。師を戦闘不能にしようなんて滅相もないことだ。そう言うと師は「組手をそんなつもりでするのなら何百本やっても意味がない」と仰る。

「こちらが戦闘不能にならないように」でなく「相手方を戦闘不能にする」?? 武術は「私が」生きるか死ぬかのもので、殺すか殺されるかのものではないのではなかったか? 人に勝とうとする、勝ちたいと欲する、そうした目的意識は私の中で今や禁忌に近いものになっている。
すると師は「"勝とうとする" ことと "勝つ" ことは違います」と仰った。

それでまた新たな課題ができた。

太極拳において "戦闘不能" とはどういう状態を指すのか

「戦闘不能」だけでなく「攻撃」という言葉で師が指すものも、いや、「勝つ」「戦う」の意味も、私はいまだ師と共有できていないと思う。
空手と太極拳で戦ったらどちらが勝つか、みたいな問いはネットに溢れているけれど、多くは囲碁でいえば局地的な「攻め合い」の勝敗についての話で、それは大局を決する「陣地」争いの話とは少し違うように感じる。私の認識は、まだ「攻め合い」の域を出ていない。

「何でもあり、何でもない」「不完全を孕んで完全」という太極の思想を体現する。師の武術の使い手になるとはそういうことだと思うし、一つわかれば全部わかりそうな気がするが、まだ機が熟さない。

組手に話を戻すと、師に「あなたは怖くない」と言われる。そして「踊るが如く、動物がじゃれ合うが如く」と教わった通りに動こうとするところを、蹴られる。なぜ師は蹴るのだろう。「蹴る」ってどういうことだろう。なぜ師は私が怖くないのだろう。「怖い」ってどういうことだろう。

道場で人の形をして仮想敵として立っているのは、暴漢のメタファーではなく死の象徴です。

推手がループ構造なのは勝負、殺し合いを仕掛けてきた相手を千日手にしてしまい、遊びにしてしまうということ。