弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

キリスト教の世界観を十字架が象徴するなら、太極の世界観を象徴するのはおなじみの
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である。白黒の要素を「両儀」と呼ぶそうだ。すなわち「陰陽」で、天と地・男と女・太陽と月・昼と夜・動と静・明と暗・・など相反する性質のものを指す。この二つの要素が渾然一体となって宇宙の万物を構成するという。
太極拳も当然この「両儀」の世界の体現を求める。求めるが、ここでわかりにくいのが

両儀」は「折衷」ではない。

ということだ。AとBの両儀が渾然一体というとき、それは「AもBも」でなく「AとBのどちらでもなく、どちらでもある」。たとえば昼は夜に、夜は昼に、変化してはループする。変わるが、変わらない。組手で言えば、攻撃を「移動でなく変形でかわす」。ストレスに対して形が変わることを避けようとするのは太極拳ではない。世界のどちらか一方に固着することをせず、さりとて世界から離れない。退かない。
動いて、動かない。動の極みに静がある。この概念を説明するには言葉より太極図のほうが雄弁かと思う。この図は世界の新たな眺めを私に与えてくれた。

しかしながら「両儀」は「折衷」としばしば混同される。ほんの数週間前まで私も誤解していた。
たとえば師は、太極拳のほかに柔術合気道や空手も教える。私はそれらを教わりながら、すべてを「師の武術」として受け取ろうとしていた。受け取ろうとするのは間違いでなくとも、折衷と混同していたから、対立する要素のあれもこれも、たとえば「キレを出す空手」も「キレを殺す太極拳」も同時に(←無茶)体現せねばならぬ、できるはずだと思い込み、当然の帰結として、いらない矛盾と解釈に悩んでは混乱に陥っていた。

そうではなく、師がさまざまな流派の武術を私に教えるのは、「太極拳」の流派性を対照から理解させるためだった。つまり「武術のあらゆる要素の中で、太極拳とは何を優先し、何を優先しないものなのか」をわかれ、ということだ。それを知って太極拳以外の稽古の意味がわかった。「折衷」と「両儀」の差は、「おじさん化したおばさん」と「両性具有」くらいの違いがある。あぶなく大間違いの方向に進むところだった。

それがわかってから連休直前に師と組手させていただく機会があったが、そのとき師は「空手の組手」「合気道の組手」「柔術の組手」と順を追ってそれぞれ「らしい」組手を指示され、それから「太極拳の組手」、最後に「白桃会の組手」をした。あなたの動きは太極拳ではない、といつも注意されるのに、その流れの中で行ったら太極拳らしい動きができたようだ。
太極拳の組手」ができたとき、自分では母パンダと戯れる子パンダになったような感覚がある。端的に、楽しい。比較対照なしの単体で、かつ自力でそんな組手ができるようになるまではまだ時間がかかりそうだけれど、シャンシャンが中国に返還されるまでには、なんとか。