弟子のSです

武術の稽古日誌

快食、快食、快食

私は実用書などにイラストやカットを描いているのだが、長く描かせていただいているジャンルの一つに「訪問歯科診療」というのがある。高齢や障害等で通院が困難な人のための、歯科の往診サービスのことである。

先日、クライアントの会社に招かれて初めて学会を取材させてもらった。歯科医、歯科衛生士、管理栄養士や介護業界の方々、厚労省のお役人など様々な職種の方が知見を持ち寄って発表する場で、今年で18回目を迎えるそうだ。
老齢の母親を家族に持つ身としては、仕事だけでなく日常生活に大いに役立つ内容であった。そして胸踊ることには、武術的だった。

私たちは不慮の死に方をしないかぎり、いずれ老いるか病を得て、自力では病院に行けないという身体的ステージを迎える。「全ての人は運動機能と認知機能が衰える。そして通院ができなくなる」というのが訪問診療の立脚点である。平均寿命から健康寿命を引いた「不健康寿命(=自力通院が困難な期間)」は平均で男性が約9年間、女性は約12年間。その期間を支えるひとりが「家に来てくれる歯医者さん」というわけだ。

北海道から出席の歯科医が次のように話していた。
「人生の最終段階における辛い状況を可能な限り改善し、人間としての尊厳を最期まで大切にすることにどう関与できるか。歯科医療は、食支援を通じてそのことを学ぼうとしている」。
人間としての尊厳を「自由であること」と読むならば、この問いかけは、おお、我々が日々武術に問われていることと、やたらかぶるではないか・・。
その方の報告された症例では、末期がん患者に対し、亡くなる数日前まで慎重に歯のメンテナンスを施していた。もちろん患者本人の意向あってのことだろうが、もう、ほとんど「明日世界が終わるとも、今日林檎の木を植える」的な世界観である。

先日の座学で、師から「武術は自由のための闘い。象徴的なのは、たとえば柔術の手解き。誰からも束縛されないで、どんな妨害に遭っても自由を担保できること」というお話を伺ったが、圧倒的に不自由な人生の最終ステージにあって、食べることを楽しもう、それを支援しようというのは、まさに武術的なチャレンジだと感銘を受けた。

「食べる楽しみ」というとき、口にする量の多寡は問題ではないと私は思う。(高齢では小太りの方が長命というデータがあるので、沢山食べられるに越したことはないのだろうけれど。)少ししか食べられない人も、固形物は無理で飲み物だけという人でも、大切なのはおいしくいただけること、食べたいと思って口に入れることだ。
それは逆境にあって余計なストレスがないということで、そうした人は、極端なことをいえば、たとえ飲み食いの楽しみが一切叶わない状況になっても、その状況なりに何かしら別の楽しみを見出して工夫するだろう。遊びをせんとや生まれけむ、たとえ客観的な健康が損なわれても、人は終生「健やか」でいられるはず。武術が求める強さとはそれ以外にないような気がしている。

・・もちろん学会ではそのような理念にとどまらず、現場の具体的なノウハウの交換や、事例の報告と考察に多くの時間が当てられた。大切なのは考え方だが、することは常に現実的な実務のかたちで表れる。そんなところも武術的だと思った。

夕刻に散会。
いかにも歯科医然とした年配の先生、スキンヘッドで格闘家のような体躯の先生、IT起業家のような先生・・と個性も多彩な先生方はそれぞれの地域に戻り、翌朝からまた利用者さんの住まいへ赴くのだ。頭の下がる思いしたが疲れた表情の人はいない。志ある人にはやりがいのある、エキサイティングな仕事なのだろうと思われた。
(今日ここにいた人を知能順に並べたら、自分は確実に最後尾だったな・・)と思いつつカンファレンスルームを後にし、食べることを大切にしよう!!との思いを胸に家路に着いた。

一般社団法人 日本訪問歯科協会 https://www.houmonshika.org/patient/