弟子のSです

武術の稽古日誌

近況

このところ私の生活配分は、週1〜2回の武術の稽古のほか
・隔週の囲碁教室
・要支援の母の生活介助
・小鳥(めっちゃエモーショナルなコザクラインコ)の世話

こんなあんばいで、道場通いに座学に遊行に、つまり稽古に明け暮れていた頃とはだいぶ事情が変わってきた。とはいえ、武術を学ぶとは武術的なものの考え方を学ぶことだから、囲碁も介護も鳥飼いも、その応用という意味ではすべてが稽古というか、研究と試行錯誤の時間であることには変わりない。どれも生きて動く相手の居ることだ。

囲碁の先生にも言われるが自分は勉強好きだと思う。地頭が悪いのでザルで水を汲むようなものだけど、昨日知らなくて(そこにあるのに)見えなかったものが、今日の自分にはちょっとだけ見えるようになった、というのは生涯楽しめる楽しみだろう。

逆に言うと「現在の自分」とは未来の目から見れば常に「昏い(見えない)世界にいる自分」だ。それをわきまえていないと、現在の目でもって未来のことをはかる愚を犯す。

「武術を習うにあたっては良い師を選ぼう」みたいなことが言われるが、下位(既知)の物差ししか持たない者に上位(未知)の世界の良し悪しがはかれるはずもなく、はかれるとしたらそれはもう未知ではない。つまり未知の(何を知らないかすら知らない)ことについて学ぼうとするとき、「選ぶ」ということは論理的にというか、順序として不可能なのだから、目の前に運ばれてきた縁を掴むしかないんじゃないかと思う。私の場合は、太極拳教室で師に投げられて「すごっっ!!」と思っただけである。選ぶも何も、ある人に投げられて「すごっっ!!」と思ったあとに、その人以外に教わる理由がなかった。

囲碁にしても介護や鳥飼いにしても、運ばれてきた縁を掴んだ結果が今である。介護など、それこそ未来はどうなるか、いつどのように終わるかもわからない話だが、先に自分が死なないようにとだけは願っている。逆縁をしたくないと望む程度には親思いなのと、あと、介護という体験を終えた世界を見てみたいからだ。そこにいるのはどんな自分だろうか。