弟子のSです

武術の稽古日誌

母の介護

今回は考え事を兼ねて、家庭内のことについて書こうと思う。

新型コロナウイルスの蔓延により「ステイホーム」が叫ばれて久しいが、実はコロナ前から私は「ステイホーム」していた。目下、82歳の実母を在宅介護中だからだ。
母は要介護4。昨年まで要介護1だったが、昨年末に激しい腰痛で入院したのをきっかけに、いきなり老いの急坂を転げ落ち、今は介護用ベッドで寝たり起きたりの毎日。同居する私が幸い在宅ワーカーなので、働きながら二世帯住宅を行き来して家事をしている。
平日の朝はヘルパーさんが身支度を手伝ってくれ、週に3度はデイサービスのお世話になるなど、介護保険の恩恵にめいっぱい預かってはいるけれど、母が家にいるあいだは体調にかかわらず見守りや介助が必要なので、結果、私は「ステイホーム」となるわけだ。

母にはいわゆる内臓疾患がなく、至って健康なのだが、アルツハイマー認知症と、片手で足りないほどの整形外科疾患を抱えており、ひんぱんに痛みが再発する。母の居室は2階で、発症すると階下への移動が困難になるため、今まで数回救急車のお世話になった。はしご車やレスキュー隊が出動する騒ぎになったこともある。
その後、私が疼痛管理のコツを覚えたのと、入院のデメリット(認知能力が激落ちする)に懲りたのとで、ここ数回の発作は救急外来に駆け込むことなく、在宅療養でしのいでいる。要介護4ともなると関わる介護スタッフも多職種多人数になるので、相談相手には困らない。「介護の社会化」とはよく言ったものだ。

そんな、筋金入りの医者嫌いである母には好都合な対処をしばらく続けてきたが、再発の間隔がだんだん短くなってきていて、そのつどデイサービスをキャンセルするので、私の生活は母の容態に左右され、先の予定が立てられない、人と約束ができないという事態になってきた。
また認知症は体調が良ければ良いで目が離せず、傍目には理解されにくい精神的負担がある。主介護者である私が疲弊すると、私を支える家族も安まらない思いをする。
そこでとうとう先日、ケアマネさんにグループホーム認知症対応型共同生活介護を紹介していただく次第となった。入所すれば通院の問題も解決するし、階段昇降の負担がなくなることで痛みの発症自体も抑えられるはず、と、これは整形外科医からのアドバイス

で、ここからが武術にかかわる話なのだが、母は在宅での暮らしを強く望んでおり、「誰にも気を使わずに、家に一人でいるのが幸せ」と私は何度も聞かされてきたのだ。「家で一人で」って、私は人としてノーカンかよ…とむかつきもするのだが、それはそれとして、居たい場所に居るというのは基本的人権というか、その人がどんな状態であれ守られるべき「自由」ってものではなかろうか、と考えると母の思いも蔑ろにできない。もともと私の武術への興味もモチベーションも、「自由への希求心」からきているものだから。

家にいれば自分の財布から孫に小遣いがあげられる。家にいれば電話が使える。家にいれば寝坊も夜更かしも、ご飯の時間も思うまま…。数度入院させた経験から、不自由を嫌がる母の言い分をもっともだと思う私がいる。

だが問題は、いま、母の自由を守ろうとするあまり、私の自由が著しく制限されていることだ。先の見えない中でこのバランスはどうしても無理がある。が、母は言外に、というかおそらく無意識のうちに「介護は身内が担うもの」という前近代的な圧を(強めに)私にかけてきて、否定しようとすれば「親不孝者」「罰当たり」といった言葉をぶつけてくる。それは、「か、介護の社会化…」なんて呟いたくらいじゃ太刀打ちできない、すごい破壊力だ。おかげで「在宅介護=善、施設入所=悪」という図式が、私の脳内にすっかり刷り込まれてしまった。

しかし。私の理性は知っている…武術が「白か黒か」の二元思考を排することを。「在宅」「施設」の二つを並べて善悪や優劣をジャッジするのは乱暴、というか不当で、不当な前提からまともな答えが出てくるはずがないのだ。

介護は、要介護者と介護者の自由の奪い合いではない。そうあってはならない。戦いがあるとすれば、それは「介護に勝つ」ためのもので、介護に勝つとは、要介護者と介護者、双方の自由が、納得できる程度にそれぞれ保たれている状態をいうのだと思う。というか、これは「平和」というものの定義かもしれない。

「母が不自由を強いられない施設」「私が不自由を強いられない在宅」…といったように、グレーゾーンのどこかに、もっともマシな、妥当なバランスの選択肢があるはずで、それを見つけることが、今の私に課されたことなのだと、かように考えております。おわり

遠隔稽古

太極拳教室の再開がいつになるのかの見通しも立たぬまま、家で套路(とっても気持ちいい)と、オンラインレッスンの課題にとりくむ日々。実地の稽古であればタッチやニュアンスといったものから学ぶことができ、間違いもその場で指摘され直してもらえるのにと色々もどかしい。

よもやこんな事があるとは想像もしていなかったが、このたび通信講座で「猴拳(こうけん)」を学んだ。「猴」とはおサルさんの意。緊急事態宣言が出る前に一度だけ稽古で教わっていたので、その記憶を頼りに、動画でチェックしながら定着に励む。

なんとか定着にこぎつけた動きを自撮りして師のもとへ送ると、ダメ出しが戻ってきて要修正となるのだった。簡潔なアドバイスによしわかった!と送り直しても、今度こそ!と送り直しても要修正だ。師の目の付け所は「完成形との比較で何が欠けているか」でなく「稽古の方向性が合っているかどうか」なので、NGを反映させる作業はどちらかというとインストール(何かを足す)よりはアンインストール(何かを引く、やり直す)になる。それをしないと間違った方向に稽古し続けることになるから、いただいたNGは「直せませんでした」では済まない。できるできないはともかく、どこに向かって進むのか、何をしようとしているか、は絶対理解していないといけない。

求められていることがわかるほどに、自分でも「できてない」「こうじゃない」と不満が高まる。猴拳は腕を拘縮させ、手首の回旋に体幹を連動させていくのだが、套路でその動きにあたる双按がそもそもできていなかったことに気づく。しかし不思議なことに、できたと思って見せる動きはNGに継ぐNGだったのに、できてる気がしない動きは「良くなった」と言われるのだった。「できた気」より「できてる気がしない」方が、客観的な状態としてはましなのかもしれない。

そんなこんなで猴拳は、師に成果を認められるまで、初見から1ヶ月以上かかってしまった。「成果」の二文字にああうれしいなあと達成感に浸る間もなく、次のお題は「蛇拳」だ。蛇拳。これは実地で教わったことが一度もなく、掛け値なしの初見である。YouTubeの動画と解説だけを頼りに稽古を進めることになる。冒頭の話に戻れば、今まで長いこと情報量の豊富な実地の稽古を通して学んできたけれど、通信講座では制約があるぶん、手持ちの既知の情報や想像力を動員しないといけない。なんだか大変なことになってしまったが、今はそういう学び方を経験する巡り合わせなのだと思うことにする。

師のブログの記事へのリンク:
第一回通信講座 Sさん猴拳
http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-504.html
第二回通信講座 Sさん猴拳リターンズ
http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-505.html

コロナ禍の真っ只中で考える

コロナウイルスの蔓延で世界的に「ステイホーム 」が叫ばれるなか、私も先月の25日を最後に稽古への参加を控えている。今まで年末年始に半月ほど稽古がなかったことはあるが、今回はそれをしのぐ、私史上初の長期休みになりそうだ。
ホットスポット東京に住んでいるうえ、我が家には82歳で要介護4の母がおり、母自身はもちろん、介護を担う私が感染しても大変厄介な状況になるのが目に見えている。なのでおとなしく自宅学習に励むことにする。

私は身体脆弱、頭脳不活発という点で、自分のスペックをある意味見限っていて、だからこそ弱者が死なないための技芸たる武術に惹かれもするのだが、「生きものがどんな術を駆使して今生きているのか」「死にかけているとしたら何が問題でそうなっているのか」といった生存戦略・サバイバビリティ(生き残り能力)について考えるのが習い性だ。

いつかの座学で、師がこんなことを仰った。
武術は暴力に対処する実用品だが、それを実用する機会を考えたとき、「素人の暴漢」に対するのと「格闘技の達人」に対するのとでは、どちらの機会が起こりやすいか。前者に市中で遭う確率のほうが圧倒的に高いのではないか、と。

誰と戦うか、どんな暴力と対峙するかによって、求められる強さの質も、勝敗の定義も変わる。師が私に求める「功夫(鍛錬)」はおそらく、「格闘技の達人を、彼の土俵で」制するためのものではない。鍛錬の方向性が間違っていると視野狭窄・思考停止に陥り、それこそ大局的には、やればやるほど、私は「死にやすく」なってしまうだろう。

広義にとれば、それこそ生活上で遭遇するあらゆる危機は、こちらの事情おかまいなし、うむを言わさぬ、という点で「暴力」だとも言える。
目下、「コロナウイルスという暴力に負けない」「(コロナウイルスがもたらす)生活難という暴力に負けない」を旗印に、それぞれの国民がそれぞれの国難と戦っている。立場や地域によって困り度の多少はあろうが、今回の災禍は地球上の人間に等しく降りかかった難題のため、各国の政策や為政者のスピーチを通して、それぞれの戦い方、「武術」を観察することができる。それはその国の文化や習慣、価値観、国民の気質の反映でもある。

多くの首脳がこのコロナ禍を「戦争」と表現しているが、敗者を必ず生みだす国家間のそれと違い、危機的状況におけるサバイバビリティそのものが問われるこの戦争は、その「武術」しだいで、すべてが戦勝国になり得るものだ。意志する全員が勝者になり得る。武術とはそもそもそういうものだと思う。

いつか必ず死ぬという意味において、すべての生物は本質的に弱者である。弱者が死なないための武術は、したがって、あらゆる時や場所、あらゆる状況下に要請される。視野狭窄・思考停止に陥らず、いま求められている強さは何か、ここにおいて勝ちとは何かを個人でも考え続けていきたい。
後年、あの災禍があって人類はより賢くなった、犠牲のうえに大切なものを得た…となってほしい。未だ見ぬ「暴力」は、コロナが去っても、いくらでも人生に立ち塞がるはずだから。