弟子のSです

武術の稽古日誌

如是我聞 <基礎鍛錬>訂正版

(11月5日の記事を修正しました。自分の解釈でニュアンスを曲げないように気をつけました)

*コメントでの師の指摘にある通り、まだ文意が通じにくいようです。作文力に絶望しかけていますが、座学では「かつら剥き」「ワットの蒸気機関」「復元ポイント」などがキーワードでした。

白桃会の稽古でおなじみの基礎鍛錬「腕振り」「羽ばたき」。道場では、頭が上下していないか・床を蹴っていないか・腕に重さを乗せられているか等々、師によって事細かに修正が加えられます。一人稽古で仕上げてくるよう求められるものの一つです。武術は自由になるためのものなのに、どうしてこのように厳しく型通りにすることを求められるのでしょう。

自由になるために型稽古をする。このことについて師は次のように説明されます。パソコンを使おうと思えば人はまずキーボードのブラインドタッチを覚える。板前を志す人はかつら剥きを練習する。自由というのは自らを由として(手立てとして)思い通りの表現ができることで、自由に文章を打ち込める最低条件がキーボードの文字位置を覚えていることであり、自由に飾り切りや剥き物を作れる最低条件がかつら剥きである。でたらめにキーボードを叩いたり、好き勝手に大根を剥くのが自由ではない。

「腕振り」や「羽ばたき」に代表される基礎鍛錬はブラインドタッチやかつら剥きのようなものだ。それらの最低条件を身につけて初めて、例えば意識や視覚を手元のキーボードや包丁(=自分自身)から相手や状況に向けることができ、ケガを減らすことができる。例えば一つの型から攻撃・移動・防御といった使用法のバリエーションを着想することができる。

このように、基礎鍛錬はそこから派生するあらゆる恩恵、形も効果も全く異なるかもしれない応用発展=「利子」を生む。身につけた基本の量が多いほど利子も多くなり、利子は利子を呼んで、自由になるほどに増えてゆく。

また、一つの武術の基礎をしっかり身につけることで、他流派のどこに行っても、何を経験しても養分にすることができるようになる。ベースとなる技術とはパソコンにおける復元ポイントのようなもので、それが作ってあればソフトを盛りすぎて調子が悪くなってしまっても、他流派を体験して混乱するようなことがあっても大丈夫。戻れるところがあるからだ。基礎とはそれらの意味合いにおいて必要で、集中して鍛錬すべき時期に今の私はいる。このように私は伺いました。おわり