弟子のSです

武術の稽古日誌

赤ペン先生

師から次のような宿題をいただき回答を提出、赤点を頂戴し以下の再回答を今朝提出した。

1・「観る」目で観察した時、「構え」というのは何を表したものですか?

答:(わからない。)上級者と初心者の構えの違いは、同じ接触点から得られる情報量だと思います。

2・「観る」目で見た時、空手の四種の受け(上段、内、外、下段)の本質は何ですか?

答:上段の受けと内受け、外受けと下段払いというグループ分けができると思います。刀だったら、前者が相手の刀の向かって右側を払う動き、後者が刀の左側を払う動きだと思います。

後者の動きは胸を張るというか、裡門頂肘の要領に似ています。前者は受けたあとで体が開きません。でも、それが何を意味するのかわかりません。

今回は採点されずに師から「赤ペン先生」と題した模範解答をいただいたので転載する。

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今回は模範解答を提示します。

それをふまえて次回、実技で答えを示してください。

1・構えとは何か

前回の木曜稽古で、最後、前に手を出しておいて、その手に多くの含みをもたせる、意味を定めずに近付けていく、ということをしました。

これが、将棋などで、同じ陣形を組んでも、上級者と初心者で差が出る部分です。

初心者は、その陣形(かまえ)に一つの意味しか与えられないが、上級者は、すでに構えているという状態の中に、抑える、掴む、打つ、相手の攻撃を遮る、拍子や間合いを測る、といった要素がすでに含まれている。

つまり、実際に打ち合うのは行為の結果の確認であって、「あらかじめ勝っている」、というのが構えです。これについては3月13日の稽古でも説明しています。

実際に体を動かし、「とにかく切ると思って」構える、ということをしていたなら、仮想敵を目の前に置けば、どの攻撃が一番自然で、逆にどの部分を狙われれば危ういかは容易に想像がつくはずです。

それは、眼前無人当有人という言葉でも教えているし、柳生連也武芸帳や武蔵の本にも書いてあったと思います。

その先の攻防のシミュレートをどこまで精密に想定しているか、というのは手を合わせただけで分かります。だから、何もやっていない、稽古になっていない間違った種類の努力をしている、自分で成長する気がない、と断じました。

がんばったかどうかは時間や気持ちではなく、実技に反映されているかでしか判定しません。

構えからの攻防のシミュレートを進めれば、相手の動きに応じて構えを変化させる稽古もしていたはずですし、動画でも示しているので、「構えから次の構えに移ることの連続体が型である」、逆に言えば「構えとは攻防の移り変わりの一番ターニングポイントになる部分を抽出したものである」という答えも出せたと思います。

それが見えていないから、組手で前の手をはたき落とされて顔を打たれる、というパターンを無限に繰り返してきたのだし、それを問題である、どうすればよいのか、という気持ちがあれば、その体験と繋げて考えて論を立てられたのではないですか?

本当に割り算の稽古、身近で簡単な事を分解していく、ということをつきつめていれば、最終的には、こうしたことや、その本質につらなる思想、つまり「武術は偶機や相手のミスに頼らずに、戦う前に状況を制している、という状態を作るものだ」、ということにまで辿りつきます。それが構えた指の置きどころひとつにも表現されているから、美しいもの、芸術にはじめてなります。

そういう意味では、一人で鏡の前で構えてみて、自分を相手に戦っているつもりでやって、たったひとつのこと、たとえば、「先生、前に出した手は打つこともつかむことも出来ますね」というような単純な発見をひとつでもしていたなら、それは教わった「知識」ではなく、自分が発見した生きた「智慧」として身に備わるので、私は80点はつけたでしょう。

そこまで考えられたなら、その先は何も言わなくても、打つ、つかむ以外の方向性への発展が自力で育っていくだろうことが分かるからです。これが独り立ちできる弟子の在り方です。

2・受けとは何か

グループの分類、上段と内受け、下段と外受けは、合っています。ただ、その理由に関しては間違ってもいないけど不十分です。

これは、合気道でいう折れない腕、太極拳でいう円相でポンを張った状態の腕を、肘を起点として内旋、外旋するのが前者で、肩を起点として行うのが後者です。これが第一の答えで、ここまでで70点です。

もっと踏み込んだ答え、たとえば、太極拳の左崩から楼膝拗歩まで、一回も肘は曲げないということ、あるいは五指の進展の運動も本質は同じことをしている、というのも、飽きるまで実際にやっていれば辿りつける答えの範疇だと思います。ここまでで80点。

さらにすすんで、ではなぜ古今東西で、この形で腕をキープして崩さないのか、という核心の部分、身体を道具化、システム化して、体軸でそれを操作するように、ドラスティックな変換(紙を横にずらす、腕相撲に指相撲で勝つといったパラダイムシフト)をするために稽古しているのだ、という意識が芽生えて90点。

そして身体が不可逆な道具化、システム化したならば、前回の稽古のように「恐怖で肘が曲がる」というようなことはありえない(腕は道具化しているのだから感情とは無関係)ことで、それが出来ていないために失敗していることを、「剣に不慣れだから」「人間は感情で動くのだからしょうがない」といった責任転嫁や、「感情や煩悩を起こらないようにする」といった場当たり的な対症療法を選ぼうとしていた愚にも気付く。

本質的な問題は、五指の進展や不随意な運動などの練り込みの浅さや、型や基礎を組手につなげる意識の低さであって、才能や資質ではなかった、と悟って、しょうもないカツオの宿題逃れのような言い訳をしなくなったら100点。

以上です。

どちらも本質的に今、Sさんが取り組むべき、足りない部分だったことが分かったでしょうか? そして、どちらも一つとして、真新しいことはなく、すでに習ったり言われていることから導かれるものです。

いつでも答えは目の前にまるまる置かれているし、Sさんが自分では抽象的で高尚な悩みだ、と考えていることも、ほぼ、もっと具体的で単純な答えがあるのに、目に入っていないだけです。