弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

護身術+太極拳。施設の都合で今週は月曜稽古がなかった。一週間稽古しないとだいぶ間が空いた感じがする。雪なのでバスと徒歩で道場に向かう。聴勁やるぞお。

護身術では「重さを活かす」ということをやった。腕の重さ、足の重さ、体の重さ。筋力を使うと、そのパーツは軽くなる。重さを活かすには力まないこと。

相手の腕や拳を、腕の重みで左右に払う・下に落とす/つかまれた腕に相手がもたれるようにしてから外し、そのまま体重で落とす/ひじからの崩し(単鞭下勢)/つかまれた足を引き寄せて体重で落とす/突きを払って下手投げ

それから捨て身投げ。

太極拳は参加者が少なかったので型を重点的にやる。転身擺蓮・左右分脚・ 進歩搬攔捶・如封似閉など。

それから丹田のお話。丹田には上から上丹田中丹田・下丹田とあり、頭の丹田で思考を、胸の丹田で感情を、下腹部(腸)の丹田で生命力や意志を司っている。足りないと鬱になると言われるセロトニンは9割が腸で作られるといい、つまり、生きようとする意志は下腹部から発する。原始的な形態の生物にも口と腸だけは存在することからも、生き物にとって死活的に重要なのは意志であり、思考や感情は後付けであること。

その後の出来事。

太極拳の時間がすんで、つづく幼児空手教室の参加者がいなかったため補習を願い出る。師はひざに痛みのあるSSさんにマッサージを施したりアドバイスをしていた。師が私を呼び、彼女のひざの左右の緩み具合に差があることを確かめなさいと仰った。触ってもよくわからなかった。

ひざの靭帯を一本切り理学療法士のもとで一年以上リハビリした私は、ひざに関して自分が認識できることには限界があり、そこから先の領域はプロというか、エキスパートでなければわからないという実感があった。自分の認識の範囲内では、体のことは「日にち薬」で、勝手に治っていくのを待つしかない感じがしていたから、師がSSさんに施術したあとでもう一度触って違いを確かめてみなさいと言われても、数分の手技でどうこうなるものではないと思っていたし、実際、触れてみても師にわかるような違いは私にはわからなかった。師はエキスパートで、私は門外漢だから。

そして私は、SSさんと師の脇で適当な運動をして時間をつぶし、師の体が空くのを待っていた。しかしSSさんが帰っても師は稽古しようとなさらない。えっえっ?と思っている間に、たいへんに叱られることになった。稽古をと言われても教わる気のない者には教えようがない、帰れと仰る。「あなたは言われたことをしないで他のことをする。間違った努力、自分の気の向いたことしかしないで自分は変わらないと言う。私の教えを踏みにじりインチキだと言う」・・・・・・・

私は答えた。そんなつもりはない。それは私にはわからないことだからです。私にはできないことだからです。先生と私は違うということです。

師「帰りなさい」私「いやです」師「決めるのは私です。稽古したければ謝りなさい」私「謝る理由がわからないのに謝るのは誠意がないと思います。わかれば謝ります」

師になりたいと望む私に師は応えてくれるが、「師になりたいと望む私」は、しかしと言うかだからと言うか、強固に「師とは違うと思う私」でもある。師と私は違う。だって違うからだ。

師の仰ること。

・わからないから習っているので、習いに来てわからないと言うのは意味がない。また、できないとやらないがなぜ結びつくのか? できないことはやる価値がないのか?

わからないこと、できないことが、なぜ、やらない理由になるのか?

・私(師)はあなたと私は同じだと言っている。Sさんは違うと言う。拒絶しているのはどちらか?

口でどんなに熱心なことを言おうとも、拒絶している人間にいくら教えても無駄だし、教わりに来て拒絶するというのがどれだけ礼を失していることか。武術が礼だということにSさんは自分で気づいたのでしょう。それでもあなたは師弟の間で決してしてはならないことをする。

申し訳ありませんでしたと最後に頭を下げた。師は疲弊して突っ伏し、私は我慢していた一粒をぽたっと落としてしまった。

心技体についても話されたのだけれど、関連がわからない。師「Sさんは心技体とは何だと思いますか」私「同じものの現れ、ですか・・・?」

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