弟子のSです

武術の稽古日誌

一昨日のお稽古

護身術+太極拳+幼児空手+子供空手。

>今後、稽古日誌でやった稽古内容や技名を羅列、箇条書きするのを禁止します。

「何を」稽古したかでなく「どういう」稽古をしたかを書けとの指導。当日の稽古は、どういうことをしたのだろう?

太極拳の時間に、先週に引き続き、気持ちを高める動き・鎮める動きの稽古をした。基本的には下方から上方へ向かう動きが「上げる身体操作」でその反対が「下げる身体操作」である。

師によく「下を向くな!」と注意されるが、それは、うなだれることが「下げる身体操作」だからだ。対する「上げる身体操作」の例には踊る・笑うなどが挙げられる。沖縄舞踊のカチャーシーなんか見るからにアッパーだし、笑うというのも、口角を下から上へ向ける身体操作と言えよう。

(個人的な趣味で言えばモーリス・ベジャールの「ボレロ」のように下げるのと上げるのが絡み合って上がっていくようなのが好みで、だから、陰陽を併せ持つ太極拳が自分にフィットするのかもしれない)

何にせよ、しているのは「そのスイッチをオンにすると勝手に楽しくなる仕組みの構築(発見)」である。楽しくなる身体操作をすると、精神力や資質に関わらず、楽しくなる。なぜならば、

人間は楽しみながら苦しめるようにはできていない

からだ。それで楽しくならないのは、やり方がまずいんだ。

・・うーん、書けない。羅列、箇条書きしないという制約があると、言葉少なになってしまうな。

稽古内容はノートには記録してある。初見で何が何だかわからなかったことが1年後にわかった、2年後にさらに深くわかったということが今までに何度もあったから、今日稽古したことがどういう意味を持つのかも、きっと後からわかると思う。今は、わからない。わからないんだから、できない道理。

今はっきりわかるのは、師は私に、いつ何どきでも「やろう」としか言っておられないこと。

師弟関係とは師の「やれ」に弟子が「やります」と応える契約なのだから、「やろう」は前提として共有されていて当然で、師はその前提に沿っておられるだけなのだが、私の方はしばしば(主よ、こんな低スペックな私をなぜ漁られたのですか・・?)的な、ぶち壊しな疑問を抱きがち。できないことでは怒らない師が不動明王の如く怒るのはこうした時だ。「それは逃げだ」と仰って。