弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

スポセン。

「雑にやらない=丁寧にやる」とはどういうことか。まず座学。

丁寧にやるとはある事物・事象について、既知のことをより深めるのではなく、未知のことを知ろうとすること。一点集中でなく総体として見ること。稽古で言えば、師に見せられることの総体を(最重要と「私が思う」ピックアップした一点でなく)取りこぼしのないように見る。「要するに・・」「つまり・・」とまとめない。端折らない。示される技や言葉はそれ自体が既にエッセンスであり端折りようがないものだからだ。(私は学生時代、頭が悪いわりにテストではいい点をとる生徒だったが、それはテストに出るところをピックアップする、つまり「端折る」要領がよかったからで、それが現在「取りこぼしが多い」という形で裏目に出ていると言える)

実技では「丁寧にやる」の実践。準備体操、回し蹴り、相手を立てて套路の一段、ゆっくりの組手。箇条書きにするとそれだけのことで2時間が過ぎた。でも今まで見えていなかった細部が見えたというか解像度が高まったというか、充実した稽古だった。組手では太極拳の技を意識して動く。初めて組手で肘底看捶を使えた。丁寧すごいっ!

丁寧にする、の関連で師のよく仰る言葉に「万物に礼を払う」というのがある。師は「価値というものは存在しない。価値判断するな」とも繰り返し仰るが、価値がない、とは言い換えれば万物は等しく価値があるということ。だから等しく丁寧に扱うのだ。

また万物が等価であるならば「価値」という概念そのものが不用、意味を持たなくなる。「価値」というものは存在しない、とはそういうことである。

しかしです。実際には人間は主観の傀儡という側面があり、通りを歩いていてもお腹が空いてれば飲食店の看板ばかりが目に入る。飲食店の価値が高まっているのである。食べた料理がおいしければその料理の価値が高まり、やっぱエスニック最強、とか思うのである。

価値判断の何がいけないと言って「価値のあるもの」は必然的に「価値がないもの」をつくり出し、ありもしない二者の対立を生むことだ。美意識にかなった生き方をしたいとか自分には何もないとか私もいろいろ考えるけど、「(価値にこだわる)あなたの考え方はあなたを苦しくする」という師の言葉はするどく胸を衝く。・・しかししかし、「価値」という概念なしに人間は生きていけるものだろうか? 価値という概念こそが人間を人間たらしめてきたのではないでしょうか?

それはそれとして、実技のこと。しばらく套路の型を順不同に繰り返す稽古をしようと思って、套路をいくつかのまとまりに分割してみた。太極拳は「くっつく」拳法なので、掤・擠・按・靠など「相手と離れる」動作を一つの区切りと考える。すると暫定20のパターンができあがった。パターンの始まりは左右どちらかの手が(取られるとか引っ掛けるとかで)相手とある程度固定されるところから始まる。

・起勢〜左掤

・攬雀尾

・単鞭

・提手〜靠

・白鶴亮翅

・左楼膝拗歩〜手揮琵琶

・左楼膝拗歩〜進歩搬攔捶〜如封似閉

・十字手〜抱虎歸山

・肘底看捶

・倒輦猴

・斜飛勢

・雲手〜単鞭

・単鞭下勢〜金鶏獨立

・分脚

・蹬脚

・左右楼膝拗歩〜進歩栽捶〜上歩攬雀尾

・玉女穿梭

・単鞭下勢〜上歩七星〜退歩跨虎

・転身擺蓮

・彎弓射虎〜進歩搬攔捶〜如封似閉

パターンの始まり、つまりトリガーが反射的に捉えられるようになればその後の動作は身体が覚えてるはずで(いちおう足かけ5年やってるんだから)組手で使えることも多くなるのではないかと!期待!