弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

スポセン。稽古が始まる前に私のした質問をめぐって叱られる。学んだこと二つ。

・師に教わるのは「白でもあり黒でもある」または「白でもないし黒でもない」ものだから、私のよくする「◯◯は白ですか?(白であるべきですか?)」といった「白黒はっきりさせたい系」の質問には大概「それはケースバイケースです」という回答が返ってくること。

・質問に対して師から与えられるのは私の知識欲が満たされるような回答ではなく、新たな謎であることが多い。スッキリしなくて質問の答えになっていないと口を尖らせるのは弟子の聞く態度ではないこと。

実技は前回り受身、後回り受身からの捨身投げ。背中の中心や、肩から腕を押さえて伏臥位の人を動けなくする。

ロシアンタイを題材に「技はどうしてかかるか」ということを考えた。私はロシアンタイの手順は知っている。でもかからない。それはなぜかというと、相手とつながる感触、接触面である相手の腕の状態(動くのか固定されているのか、もうすぐ極まるところなのか、既に極まっているのか等)について鈍感だからだ。ゆっくり動いてもかかる時はかかるし、やみくもに失敗を重ねても時間の無駄。動きや角度のどこが要修正なのかを丁寧に探っていくのが稽古だ。

対向して前後に押し合うのと、上下に押し合うのでは耐えやすい姿勢が異なる。前後の押し合いでは腕をまっすぐ伸ばす方が強い。曲げていると腕ごと胴を押し込まれてしまう。逆に上下では腕を曲げて胴に引き寄せている方が強い。腕を伸ばしていては容易に押し下げられてしまう。

こうした一連の「強い感じ」「つながる感じ」「極まる感じ」「中心を捉える感じ」・・言葉や理屈でないそれを、相手との間で、体で覚えていくこと。

それから組手。最初はゆっくり、そのあと普通の速さで。夢中でやったが雑ではなかったと思う。邪念が入ると雑になってしまうんだ。金曜日よりいいと言われた。次の金曜日にこの状態でもっていければ。

組手中に私の指が師の目をかするというアクシデントが起きてヒヤッとした。つるんとした球状の感触が指に。目玉・・。組手は中断せず、師はしばらく目をこすりながら動き、動きながら徐々にこすらなくなった。外連味がないというか、そのまんまというか・・。終わって「目、大丈夫ですか」と訊くと「うん」と仰った。とりたてて騒ぎもしなければ辛抱もなさらない方である。

座学。目下の疑問「価値は確かに実体を持たない幻想だが、その幻想こそが人間を人間たらしめてきたのではないか?価値判断するな、実相を見ろというが、価値をいただくことは武術では害悪なのか?」を問う。そうだ害悪だ、と言われたらどうしよう。

すると師はあっさりと「実相と幻想は表裏一体です。太極拳はどちらも包含する」と答えられたのだった。「実相を見ずに価値(幻想)だけを見るのは信仰。実相を見、幻想は幻想と知った上で見るのが武術です」・・そうかあ!

価値が幻想にすぎないと知っていることと、価値をいただくことは相反しないんだ。よかった。ほっとした。それと同時に、私はまた「でも・じゃあ」を駆使して、ない白黒をつけようとしていたんだなと思った。

太極拳って、太極って、ほんと、何なんだろう・・・・何でもあって何でもないもの・・・

それ(太極拳)は知覚と認識の変革なので、猿が人になったように次の段階に人間を進ませる可能性がある。・・人が次の段階に進むというのは身体意識の拡張によって行われるだろう。