弟子のSです

武術の稽古日誌

肯心ほしいな

人間は楽しむために生まれてきた。

だから何が起きてもどこ吹く風で日常を守る技術が要る。そう教わった。

師「今の自分は自分の本体ではない。人間の本体は未来にある。ゆえに現状の自分を信頼することは未来への可能性を潰す」

私「現状の自分が信頼できなければ、何を方向指示器にして進めばいいのですか?」

師「より自由、自在度があがり生存確率があがる進化の方向」

私「信頼しない自分がどうしてその方向を正しいと判断できますか。武術に訊く、ということは自分に訊くと同意なのではないですか?」

師「自分は自分に嘘をつくし、自分は自分の嘘を見抜けない。ゆえに実験をしてその結果から判定しなければ自分の進んでいる方向性が正しいかはわからない。推手は人生だと言ったのはあなたです」

そうだ。人生が推手なのでもある。「何が起きてもどこ吹く風で日常を守る技術」としての単推手。以前の稽古日誌に「息を吸いながら胸元でしっかり相手の力を受け入れ、軸がぶれないように回転して受け流す。吐きながら力を相手に返す」と書いている。

胸の真中心で受け止めて「でも」と返せる強さが欲しい、ともその記事に書いているが、それに必要なのが自分を拒絶しない心、「肯心」なのだと思う。自分を肯定していなければ、たとえば「ハゲ」と言われたら「そうだよハゲだよ、だから価値がないんだもん、負け組だもん、死んだ方がいいんだもん」と陰気なループにはまってしまって、ちっとも「でも」に結びつかず、それでは倒されてしまうからだ。そして先に液状化の例で考察したように、ハゲに本来プラスの価値もマイナスの価値も存在しない。ただ毛髪が無いという特質に過ぎない。

ハゲと誹謗中傷されたことに傷つくのは、自分自身を価値判断して貶めているから、肯心がないからだ。現状の傷ついている自分を信頼することは「でも」から先の未来への可能性を潰す。

推手には自滅しかないと言われた。人生も負ける人は勝手に負けるし、死ぬ人は勝手に死ぬんだ。武術は殺すか殺されるかでなく生きるか死ぬかだというのは多分そういうことだ。