弟子のSです

武術の稽古日誌

肯心ほしいな2

上の娘がほにゃららとした小学校時代を過ごした後、公立中学に進学したが水が合わず不登校気味で、私は担任に呼ばれた。「お母さん、人間には変わるべき時があります。今がその時です。彼女が変われるようお母さんも頑張ってください」。私は「いいえ、あの子は変わらなくていいんです」と即答して担任を呆れさせた母親だった。しかしそれで良かった、というか、そうするしかなかったと今でも言える。無理に矯めたら壊れてしまっていただろう。すったもんだの末に卒業した彼女はその後自然に(つまり比較的平和裡に)変化して、強くなり、今、自分のセンスにたのんで世に出て行こうとしている。

私は、人の中には「その人をその人にしているもの」「それを変えたらその人がその人でなくなってしまうもの」があって、それはともすれば壊れてしまうものだから、生きるためには全力でそれを肯定し、護ってやらなければならない、と考えている。つまり誤解を恐れずに言えば、人は自分のために(自分を中心に)生きる自由があるし、そういうタイプの人はむしろ、そうすることでしか他人のために生きられないのだと。

変えなくてはならないものは変えなくてはならないが、変えてはならないものは変えてはならない、と言う私の考えはしかし、武術を修める上で大きな障碍になっている。師は、私の主張はいつもどれも自分を変えないためのエクスキューズだという旨のことを仰った。自分を中心に生きるのを変えるのでなく、それによって生じる「弊害」をなくしていきたい、という私に「自分を中心に生きる」のを変える気がないのが弊害そのものなんじゃないですか、と。だからあんな組手しかできないんじゃないですか。

生きるという事は変化・進化することそのもので、変える気がなければ死ぬしかないのだから、死にたい人に教えることはない、どうぞお引き取りください、と言われた。

そうなのかな。変わらないと死ぬのかな。人のある部分は、変えたら死んじゃうんじゃないのかな。私が武術を始めてから極端に自己評価が低くなったのは、変えちゃいけない、肯定すべきものまで否定して無理くり変えようとしているからじゃないのかな。

私はクリスチャンではないけれど、なんとなく「主よ、すべてを御手に委ねたてまつる」とミレーの『晩鐘』の如き心で日々を生きている。主とは何か? と尋ねられてもよくわからない。「神」と呼ぶのが一般的に最も通りがいいことは知っているが・・。なにしろ人智を超えたもので、その支配下にある感覚を私は強烈に持っている。そのもとでは、良かろうと悪かろうと私は私であることを許される。教えに異を唱えることは師弟のルール違反と知りながら、そうした感覚と武術の感覚とのずれ・矛盾に私はずっと悩んできた。

しかし私のそれは、兎が勝手に切株に当たると信じて切株をただ見ている愚かな農夫とおんなじだ、と師は仰る。あなたはキリスト教から隣人愛や兄弟愛を除いた都合のいいところだけを抜き出して、我執に囚われたかさぶたの自分を守ろうとしているに過ぎない。「あなたが変えまいとしているのはかさぶたです。あなたは自分の本体とかさぶたの区別がついていない。二つのものがあまりにもべったりくっ付きすぎているから」。そして「あなたがそれほど大事にしているもの("神")があるなら、なぜそれが私の口を借りて話しているとは考えないのか?」と仰った(!)

「変われ」という武術のタスクを脅威に感じるのは、単に、守るべき自分の本体とかさぶたを混同しているせいかもしれない。変えるべきは単に「まずい手を繰り出すまずい私」これに尽きるのかもしれない。

目の前の"神"は言った。「無私。無我。自分が無くて、何にでもなれるってすごく良くないですか?」・・わからん・・。何にでもなれる、その前に、私は私になりたい。