弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

再現性のまずさはともかく私の武術は100パーセント師の武術だ。師からしか学んだ事はない。師の2?年のキャリアの最先端だけを常に見せてもらい、師の方ではその先端に達するまでに膨大な経験と知識の蓄積があったはずだが、私はそうしたところをすっ飛ばして、ある意味「いいとこ捕り」で学んできた。一般的にケンカや格闘技に触れたり興味を持つ機会がもともと多い男性と違い、私はそうした情報の蓄積のないところでやっているので、それを師は危惧しておられる。武術的な素養があれば戦いに及んで敵が「どういう攻撃をしてくる相手か」ある程度察しのつくものを、私にはそれがわからないからである。 たとえば八極拳のように手を槍のように直線的に用いる武術もあれば、いわゆる内家三拳や合気道のように手を刀のように用いて曲線的に動く武術もある。太極拳は後者に属し前者とは異質であること、その知識がなければ未知の相手の攻撃に対処できる幅は大きく狭まるだろう。師の武術は太極拳を基本としながらも、そうした補完を繰り返して現在の「師の武術」としか表現しえないものになった。 必勝法の追求が一般的な武術のモチベーションだとすると太極拳は毛色が変わっていて、望む結末を勝利でなくする、という驚天動地なコンセプトを掲げているのだけれど(詳細は師の新しい記事をご参照ください)、求めるものが「勝つ」でなく「しぶとく生き残る」であっても、ゲームに習熟することは同じく必要だという。勝とうとしないんだからそのぶん無知でもいいでしょう、とはいかないみたいなのだ。 「攻撃とはなにか」という本質を解体すること。 というわけで、今日の稽古では一般教養というか、ふだん教わっている技の中にどんな流派のどんな動作の要素が含まれているかを教わった。柳生心眼流柔術八卦掌合気道八極拳など。かねがね気になっていた八卦掌の動きを初めてきちんと稽古でやれて興奮と満足とを覚えていたところ、上記のような背景があっての稽古だったことをあとから聞いて知った。 何をしてくるかわからない相手に対し、その時点での手持ちの技術を総動員して「ワンチャンスで技をかけ、駄目だったら殺されるだけ」。それが護身、なんてすがすがしいのかしらと思っていたけれど、師は私より大幅に緻密で、かつ生き残ることに貪欲なのだった。「武術はアナクロであってもアナログではない。むしろデジタルなもの」。私はいいかげん酔いから醒めよう。