弟子のSです

武術の稽古日誌

たぶん主客同一の話だと思う

師「生徒はお客さんなので私人だが弟子は未来の同僚、研修生なのだから公人でしかありえない。公人が '私にとっての武術とは~' というような物の見方をすること自体、ありえない」そうか・・・・

師の「同僚」清風会・高無宝良先生「いつの時代でも人間関係ですから、師匠の気持を忖度する事は肝要ですし、それが対人稽古にもなります」そうか・・・・

これから私の書くことはわからない人にはわからなく、Sさん、落ち込みのあまりおかしくなっちゃったんじゃ? と思われそうですが、わかる人にはわかると思うので書きます。

「私」というものがどん底まで(いや、まだこの下があるのかもわからないが)落ちてみると、自分の内奥になにか清明なものの存在がうすら感じられてくる。「私」に暴風が吹き荒れるなか、そこは凪いでいる。客体のようなそれに私は頼る、というより私はそれなんだと思う。自力本願か他力本願かで宗教は大別されたりするが、自分の内にあって他者のような無風のそこを思うとき、「自」と「他」とは畢竟区別がないんじゃないかって気がする。

無風の場所を凝視するーーどちらの人々も本質的に同じことをしている

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客体のような存在、いわば公的なものが私の内の「ここ」にあるということは、他者の内の「そこ」にも同様にあるということで、その「公」という共通項において自分と他者ともまた区別がない、ということになるのだろう。しかし、いざ人というナマモノを前にすると、自分の内なる他者と自分とを同一視するようには、目の前の人と自分はおんなじだ、とは思えない・・。

自分と他者に区別がないというのは、よい芸術作品をみて感動した時などに得られる、作者と作品と私とが「公」を介してつながっている感触、あれかと思う。作者と私、作品と私だけでなく、作者と作品もまた(いい作品であれば必ず)公的な関係にあるものだろう。作者が「私」を去り、公的な視点(自分がどうしたいかでなく、どうすることが作品にとって正しいか)を持った時、作品はよくなって見る者に訴え、作者自身も救われるのだと思う。

剣術家が自分でなく刀から物事を見るように、もっともっと「私」を否定し、否定し尽くした先に「あなたはあなたでありながら私、私は私でありながらあなた」という視界が開けてくるのかもしれない・・・しかし、それまで身がもつかしら。自己否定って異様につらいんだよ・・。