弟子のSです

武術の稽古日誌

言葉ではわからないもの

自分の課題は、先入観がまさって他者を等身大で見られないこと。上級者にならって技の知識を仕入れたとしても、私に人を見る目(感受性)がなければ意味がないと言われる。 師「あなたは言葉と記号にすぐ騙される。こうして私が話していても私の話す言葉の内容ばかり考えて、話す私を見ていない。言葉でわかろうとするうちは私の言うことはわからない」。 哲学者・西田幾多郎も、禅仏教に基づいた(つまり一般的には非常に理解しづらい)自分の思想が曲解されるのを嘆いて次のように書いた。 異なった立場からの無理解なる批評は、真の批評とはいわれない。私は先ず私の立場から私のいう所を理解せられることを求めるのである。(『私の論理について』) 師から学ぶ私は、私の立場からでなく「師の立場から師のいう所を理解」することが稽古のすべてと言っていいと思うが、そうした理解力や感性というのも、腕振りや羽ばたきなどの基本動作と同様、ひとりで鍛錬して身につけるしかないらしい。こちらの見る目がなければ、いくら長く接していても見えないものは見えないからだ。 タクシーの運転手、ホテルマン、刑事、銀行員、弁護士、公務員、接客業一般・・・不特定多数の人に接し、人を見る目が養われそうな職業といったらこんなところか。ありがたいことに雇ってくれるところが見つかったので、来月からちょっと接客やってきます。