弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

前回の記事について、「柔術寄りでやっていく」とは「太極拳寄りでやっていかない」ことではないと指摘される。またAorBの間違った考え方に陥っていた。やっていくのは、柔術であり太極拳であり、また剣術でもあるものだ。

剣と柔は同一の身体操作を軸としているが、太極拳もそれに親和性が高い。受け身の原理を使って攻撃する技術、と言えるかもしれない。

同じく前回の記事で私が感銘を受けたと書いた「壊れ物を使って自分は壊れず相手を壊す」についても、「相手を壊す」ばかりでなく「自分は壊れず」という部分にも着眼しなさいと言われた。壊れ物である自分を壊さないように扱う。私が稽古でいとも簡単に体を傷めることへの戒めだろう。

具体的に師はそれをペットボトルを使って説明された。床に立てたペットボトルを横殴りしたとして、ボトル上部に圧が加わっていなければボトルは衝撃の方向に動くか倒れるだけだが、上から圧をかけて重い状態にしておくと、ボトルは動かないかわりに折れてしまう。ボトルが人間の足だったら・・。怪我しないためには上半身を軽くすることが重要なのだ。ここで軽さとは物理的に軽量なことではない(私よりずっと体重のある師の上半身が「軽い」のである)。上半身が軽いとは、サスペンションの効きがいいこと、つまりは柔らかいこと。

関連の文章を師のツイートから引用する。ブログに転載されていないようなので。

体が浮き、着地するときに地面に対してするアプローチは剛柔二種類ある。剛の代表例が震脚である。無手の武術は人を倒すのに触れねばならないので対手と自分の関係に目が行くが、実は足裏と地面の接触に起きている現象は、手と相手の接触でおきていることと相似する。地面に震脚するとき、拳は相手に同種の衝撃を伝えている。足が地面に対し棒のように突っ張っているときは、腕も棒のように突っ張っている。では、足裏を柔の使い方、足音を消し緩衝材のように使う場合はどうなるかというと、手は「按」になる。按はバレーボールのレシーブやトスのように自分を緩衝材、スプリングのように使う。なので足が踏ん張っているかぎりは出来ない。そしてこれは柔術の前受け身とも相似になる。按は相手の肉体に対する前受け身ともいえる。

仰っていることはまた剣術の「ねばりをかくる(『五輪書』)」とも相似であろう。

私はバイトでも不測の事態にすぐテンパり、足も手も口も動きが硬くなって自滅するので、受身を取ること、つまり柔を心がけようと思う。しかし心がけほど当てにならないものはない。テンパれば心がけそのものを忘れてしまうのだから。ただ立つ・歩く。それだけでも足裏を柔らかく床に接する稽古の機会になるので、体が覚えるまで精進するしかない。

先週から、化学者・仏教研究家である細川巌氏の『歎異抄講読』をウェブで読んでいる。

http://homepage3.nifty.com/Tannisho/

全60回、5年かけて行われた講義録である。歎異抄はカルチャーセンターにでも通わないと読むのは無理かと思ったけれど、無償でこのようなテキストが出ているのは驚き。師が先日、子供空手で「自分はお金のために教えてるんじゃない。だから君たちは私のお客さんじゃない」と生徒を諭されていたが、そのように与えられるものは相応の態度で受け取らないとだ。

歎異抄講読』はまず歎異抄の読み方の講義から始まる。次の話にいきなりガツンとやられた。

現在、書店で見るのでも、『私の歎異抄』とか『歎異抄入門』とか、色々な人が色々な角度から、『歎異抄』について書かれております。しかし、私の『歎異抄』というだけでは参考書にならない所があります。と申しますのは、『歎異抄』という書物の中心は、親鸞というお方の信仰にあるからです。前序には「先師口伝の真信」という言葉があります。この真信が明らかになる事が、『歎異抄』を読む上での眼目であります。

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丹羽文雄さんやら吉川英治とか、いろいろな人が親鸞について書いているけれども、現代の親鸞小説についてはことごとく全て作者自らが描いたイメージ、像でございます。これらには何も根拠がないのですね。

歎異抄とは僧唯円が師親鸞の教えをひたすら傾聴して記したものだというが、思えばこのブログも「私は武術についてこう思う」「私にとって武術とはこうである」式の文章ばかりだ。一個人の「解釈」なんて自分以外の誰にも求められていないし、自分の幸せにのみ用立てようっていう、その了見が恥ずかしい。なんだかすごく恥ずかしいことしてたな・・。