弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

自分は向上心に恵まれた人間だと思うが、それでいて師の要求に応えることは到底無理と怯む弱さがある。強くなりたくて師に「教えて欲しい」とは言えても、「教えてください」と言う勇気がない。「〜してください」には責任が伴うからだ。荒唐無稽に思える師の指示を無条件で受け入れることができず、いつも何かしら疑念を抱いている、それがどこか拒む態度になって現れる。

それで師は、私に教わる意思がないと判断された。今週の月曜稽古でのこと。

師は言われた。武術も、師弟のことも、あなたはまだ何もわかっていない。わかっている、武術をやっているというなら、カフェでもどこでも「あなたの武術」をやっていけばいい。あなたは何もわかっていないし、肩書きばかり大事にして弟子の役割を果たしていない。果たす気がない。

それでもなお「教えてください」と言えず、さりとて「辞めます」とも言わない私に、師は課題を出された。

次回の稽古までに自分の映っている動画を100回見てきなさい。そして質問に答えなさい。

そう仰って質問を列挙された。

その後数日間、スマホとPCで、再生できる時間は全て動画の視聴にあてた。再生数のカウントもせずに見たから実際に何度繰り返したかわからないが、命じられた回数は優に見ただろうと質問の答えを書いて提出すると、師は私の回答を一瞥されただけで「まだ足りない、もっと見るように」と仰った。質問はフェイクで、そうでもしないとあなたは全身全霊で見ないから、と。

「あなたは記憶を言葉によってするから良い時のことを忘れる。だから何度でも同じ過ちを繰り返す。動画の自分の動きを言葉でなく感覚で覚えなさい。夢に出てきて感覚が再生されるまで見なさい。全身全霊で見る、の ‘全身’ とはそういうことです」。

私は今まで「全身全霊」という言葉を「全霊」と略して使うことが多かったが、そこに自分の問題が端的に表れていたと思う。

私が師から教わっているのは身体に関することだった。身体を使った実際の攻防に耐える自分を作ること。我をなくすとか傾聴とか柔軟といった徳はそのために必要なものだ。身体的攻防と美徳。目的は手段であり、手段は目的である。

あなたの稽古はこれから、ますます言葉で理解しようとしてもわからないことが増えます、と師は仰った。今後ブログでは、師が言葉でなしに伝えようとしているものを、手持ちの語彙で無理くり言語化しようとするのをやめようと思う。それは必ず不正確で、時間の無駄だろうからだ。そのかわり言葉として伝えられたものは正しく書き残すように努めよう。