弟子のSです

武術の稽古日誌

エビデンスにあたれ

どこかの展示室で毒キノコのいろいろ、みたいなのを見たときのこと。添えられた説明に「忘れてならないのはこれらのキノコが有毒であると判明するまでには夥しい数の先人の犠牲があったことです」みたいなことが書いてあった。フグもそうだが、そのものが人間にとって有毒かどうかは人間が実際に当たってみなければわからない。マウスを用いた実験では「マウスにとって有毒」というエビデンスは得られても「人間にとって有毒」かどうかはそこからの類推でしかないからだ。経験された事実はそうした意味で宝だ。

厳密に言えば人間にしたって個体差があるし、完全に同じ条件下で事象が再現されるということはあり得ないのであらゆることは不確かな訳だが、それでも、人間が昨日より今日、今日より明日と進化するということは、エビデンス(確証となる事実)から推論して仮説を立て、それが検証されることで次のエビデンスを得、そこからまた推論して・・と徐々に推論の「確からしさ」を高めていくことだろうと思う。(カフェのオペレーションもそうやってだんだん効率よく洗練されていく。)

なので、検証されていない推論(思い)と検証されたエビデンス(事実)とを混同しないようよくよく気をつけないといけない。「このキノコは有毒だと思う」と「このキノコは有毒だ」とは論拠となる資格の有無において決定的に異なる。思いというのは確信に近いほど固執したくなるけれど、そこで「これはあくまでも自分の推論であり、普遍的な事実かどうかの検証を経ていない」という自覚というかわきまえを持っていないと、別の推論を持つ他者との間で発展的な(=より確からしい、進化につながる)方向に議論を進めてゆけない。

だから、賢く強くなろうと思ったらエビデンスにあたるしかないんだよなぁ・・。

書いたように、経験された事実こそが宝だし、それに師は武術をやるなら先人のした最低限のことを知っていてもらわなければ同じ土俵で話もできないと仰った。

先人の動画を見よ、という課題を前に。ううう・・・