弟子のSです

武術の稽古日誌

合気いろいろ

そりゃ月に十何回稽古に来るというのも熱心、また遠くから通うのも熱心、であるけれども私の熱心さはその熱心さと質、量ともに本質的に違う。どうしても合気を会得するのだというすさまじい執念があった。みんな考えないでただくり返しているからうまくいったりうまくいかなかったりしている。とにかく全然努力が足りない。誰も私のように努力していない。まあ仕方ないね。時代が違うんですよ。今は名人の出る時代ではない。・・・これ程言ってもやらないんだからね、もう私の責任ではないよ、本当に。(木村達雄『透明な力・不世出の武術家 佐川幸義』) 日本の合気柔術を習うのは良いことだが、本物の合気柔術は何十年も、のめり込まないと修得出来ないことが分かって来る。途中だと、木に竹を接ぐ事になる(呉連枝『続呉氏開門八極拳』) ・・師は、 赤ちゃんが大人にあやされて二人がニコッとする、あれが合気です。 佐川氏のいう合気と師の合気は違うものなのですか?と問うたところ、同じだし違います、という答えが返ってきた。うーん。いずれにせよ難しい。ただ師の仰るところの合気が、名人が出ないとぼやく佐川氏のそれと違うのは、できる人には最初から(なにしろ赤ちゃんでも)できることだ。できない人はいくら頭で考えたところで、というか、おそらく頭で考えるが故に、できない。赤ちゃんの素直さがあればナチュラルにできるし、素直さをどこかに置いてきてしまった私のような者は後天的に獲得する(=取り戻す)しかない。そういう者にとって、学びの本質は頭で理屈をこね回さず「ただ見る、ただ聴く」ができるようになること、それに尽きるのかもしれない。 師ご自身は合気を後から獲得されたタイプの方だというのが私には一縷の望みなのだけれど、それはいつも言われるように、努力でというより「わかることで一瞬で変わった」のだと思う。 そのためには、何が何でも修得したいという目的意識が仇になるので、もう、できなくてもいいと思うことにします、と師に言うと、師は「できてもできなくてもよいが、できた方がよい。特にあなたはできた方がよい」と仰った。私の修行の鍵になるもの、核心だということだ。