弟子のSです

武術の稽古日誌

武術的なものの考え方について

先日またもや、うーんとうならされる事を師に言われた。

数年前、師からうかがった喩え話にこういうものがある。

地震で家が潰れて火事になりました。家の下敷きになり足が挟まれて動けません。傍らにノコギリが落ちています。火が迫ってきます。足を切り落とさなければ死にます。どうしますか? 足を切るしかないのではないでしょうか?」

この話の教訓は「選択には最悪の選択と悪い選択しかない」。生き残る、そのためにろくでもない、気の進まない道を選ぶこと。ゲームオーバーかアンハッピーエンドかという局面で、ゲームオーバー(死)を避けるのが武術における最適解であること。

私はもちろんこの話に感銘を受けて以後数年過ごしてきたわけだけれど、先日、この話から一歩進めて師は次のように言われたのだ。

「足を切り落として生き残ったあとで、それがドッキリだったらどうするか」。

死ななくても足を切るというのは十分に「取り返しのつかない」ことだから、そんな悲劇を避けるためにどうすればよいか考えると、AorBの思考法を日常的に戒められている身、研究者・プログラマーであれと言われている身としては、

・挟まれた状況で「足を切る」「死」の二択以外の選択肢を模索する。例:「見識を高めてドッキリと見抜く」

・そもそもそんな状況に陥らないようにする。例:「ドッキリの標的にされないような人でいる」

・・・など考えた。

しかし師は予防策でなく、あくまでも足を切った「事後」のことを問うているのだ。

師が仰るには、

その時は足を切るのが最適解だったのだから、後がどうであれ、それについて何とも思わない。

幸いにもそこまでクリティカルな選択を今まで迫られたことがないからあくまで想像だが、もし私だったら、まず「その時は足を切るのが最適解だった」と100パーセント言い切れる自信がない。ああもできたのでは、こうもできたのではとあれこれ考えて後悔してしまいそうだ。

どちらが強いかと言えば、後悔でクヨクヨしている人間より、何とも思わない人間の方が強いに決まってる。明るくて、健全で、美しい。

「取り返しのつかないことだったと後から分かってもその時の最適解なら何とも思わない。そして最適と判断を下したその解は、往々にして世の常識に反することもある」・・・私を弟子にしたことを言われてもいるようだ。そして、我執まみれの自分ではあるけれど、武術を学ぶという一点に関しては私も全く同じ思いでいる。

武術する、武術を続けるということは、それだけで多かれ少なかれ武術的なことなのかもしれない。