弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

あちこち出かけていろんな人と話して本も読んで映画も観て、楽しく武術的にも充実した夏休み・・・と思っていたが、二週間ぶりに稽古してみたら、今まで投げられたことのない人に投げられ、師との自由推手では同じパターンで何度もやられるという、かつての悪癖が再発していた。 キキだったら、トンボとリア充したあと「魔法が弱くなってる・・・」と暗澹とする場面だ。 弱くなっていてショックですと師に伝えると、ブログの新しい記事を改めて、気づいていないところに気づくまで読み込むよう言われた。いわゆる「ぼんやりしているのが常態化してしまっている人」として。 ぼんやりしているといっても本人的には全身全霊で取り組んでいるのだが、それなのにというかそれ故にというか、視野狭窄を起こしていて、目に入らないものが私には多い。情報の取りこぼしが多いから 失敗してもどこが悪いのかわからず、したがって修正ができない。 師のツイッターより引用。 人間は全部の情報を処理すると負荷が高いので情報に優先度をつけ、取捨している。歯が痛い時しか歯医者の看板は目に入らず、本を読まない人は書店の位置を記憶していない。しかしこうした認知は武術的ではない。なぜならこの認知方式の終着は、周りを見てないおばちゃんドライバーの運転だからだ。 すれ違う人すべてが潜在的に敵になりうる、そしてあわゆる箇所に罠がある可能性があるとするなら、モブ、エキストラはいない。これが万物に礼を払う、価値判断をしないという教えである。 実のところ、脳の処理機能を圧迫するのは、この価値判断や優先順位をつけるという処理に対して発生しているのであって、すべてを並列に意味づけせずに受け取ったなら、情報は飽和しないのではないかと思っている。サヴァン症候群の人の記憶能力を見ると、そのように思える。 噺家が稽古で、「ここで3秒間をとって左を見る」といった覚え方をせず、そっくりそのまま師匠を真似るのも、こうした並列的認知をしているからで、極論、日本文化的な芸事はこれありきで成立している。 すべてを並列に、ありのまま、意味づけせずに受け取り処理すること。私にはそれができ得る。師が仰るのだからそうなのだろうし、できなければ私が困る。 師のブログの記事から。 カルロス・カスタネダの本の一節で、筆者が呪術師ドン・ファンから教えを受ける際に、体の一点に強い衝撃を加えられ、その後、鮮烈に呪術の核が何なのかを理解するという描写があります。 ドン・ファンはどうせその理解は永続的なものではなく、今作り出された精神状態が切れれば分からなくなる、と言いましたが、筆者は、今、こんなに明確なのだから忘れる訳がないと反論します。そこでドン・ファンが筆者の身体の別の一点を突くと、さっきまであれほど鮮烈に焼き付いていた体験の確かさは消え、感覚は曖昧なものに戻ってしまったといいます。ドン・ファンはどうせその理解は永続的なものではなく、今作り出された精神状態が切れれば分からなくなる、と言いました」そこまでの認識なら私はドン・ファンと共有できる。最近になって漸く気づいた。自分の「理解」はその時の精神状態の反映にすぎない、つまり虚しい、アテにならないと。精神状態はいかようにも移ろうからだ。 「理解は永続的なものではなく、今作り出された精神状態が切れれば分からなくなる」。 しかし師はそれを逆手にとってというか、私の認識をさらに進めて「分かる精神状態を作り出せるようになれ」と仰るのだった。ドン・ファンがそのオン・オフを完全に自分の支配下に置いていたように。 どうやって? 「活を入れることによって」。 活を入れることで、取りこぼしの多い ぼんやりした)今までの状態がローギアであって、(くっきりと明確に、全体的に、並列にものが捉えられる状態である)トップギアは別にあると知覚するのは、そうした意識の定着化の入口になります。 そんなこと、私にできるのかなあ・・・。 しかし私が耳障りのいい言葉ばかりに満足せず、師についていくのも、考えようによっては自分の中の何かが「活」を望んでいるからかもしれない。そうしてくっきり見えてきたものが今までに随分あるからだ。たぶん視野狭窄を起こしている中にもそこらへんの勘というか、嗅覚に私は恵まれているのだ。 ここで最後に「勘」や「嗅覚」といったワードを持ち出すところに私のぼんやりが集約されているとも言えるが、・・・うん、賢者ドン・ファン目指してがんばろう。 (注:—線は師の指摘により修正しました)