弟子のSです

武術の稽古日誌

上野千鶴子さん3

前回の記事で引用した師のツイート: 道で殴られて「社会が悪い!」と叫びながら死んでいくよりクロスカウンターで倒した方が美意識に適う。 早い話が私もそっちのが趣味に合ってる、ということなのですが、道で殴られて「社会が悪い!」と叫びながら死んでいく、という箇所の、「道」を「DV」に置き換えて読むと深く考えさせられるものがある。 たとえばDV被害者に反撃を勧めるカウンセラーはいないという。それができるようなら彼女たちは被害者になっていない。そもそも彼女たちには自分がDV「被害者」であるという認識がない。児童虐待などでしばしば見られるように、弱者は「自分が悪い」と思っている。それが弱者の特徴であるとさえ言える。非は殴られる自分にある。相手を、ましてや社会を責めるどころではないのだ。  DV臨床でわかっていることは、被害者が自ら被害者と「同定(identify)」することがむずかしい、という事実である。そして当事者の被害者としての自己同一化は、状況の変化を当事者みずからが望むための、最低限の必要条件である。事態を変更したい(「治りたい」)と望まない当事者を、誰も援助することはできない。  したがって同一化の理論から言えば、「被害者である」というよりは、「被害者になる」と表現したほうが正確だろう。そしてその響きに反して、「被害者になる」ということは、弱さを認めるということより、むしろ加害者に対して自分の正当性を主張するエンパワーメントなのである。(『生き延びるための思想』) DVにおいては、殴られた人に「あなたは被害者なのよ」と教えるところから始めなければならない。またそれ以前に、彼女たちは殴られている状況を「死んでいく」ことだと認識していない。それに耐えることで「生き延びている」と思っている。 私領域における暴力は、権力の圧倒的な非対称のもとで起きる。被害者の無抵抗は、ひとつには暴力によって無力化された結果だが、もうひとつは学習された結果でもある。抵抗した被害者は、もっと徹底的な反撃に遭って叩きのめされる。その結果、被害者には「暴力(的な状況)を生き延びる」ほか、選択肢がなくなる。(同上) つまり弱者の問題は、考え方より何よりもまず、実際のありようを把握していないところにあるのだ。ただしく弱者(被害者)になって初めて、弱者(被害者)であることをやめる、という選択肢が見えてくる。なんでお前に殴られっぱなしになってなきゃいけないんだと、死なないためにクロスカウンターを稽古するなり、逃げるなり。 女性学は「弱者学」だ。そして、いったい人間に生まれて、弱者でない者がいるだろうか? 逃げよと説く上野先生も、読めばある意味(というか、ものすごく)「戦う派」の人である。十分に弱者の弱みを残したまま、どんなに揶揄されようとも、社会や軍隊といった巨大なものに果敢にクエスチョンを投げかける。そこが彼女の魅力だ。 ちなみに「DV」とはフェミニズムが名付けた概念である。名付けられる以前にはそれは「あるのに存在しない」内輪の横暴であった。名付けられて意識化され、問題として共有され、法制化された。フェミニズムがもたらしたいくばくかの変革を思うとき、社会を変わり得るものとして活動してきた人達にふかぶかと頭を下げる気持ちになる。 私の変革は私に向かう。個人的なことは政治的だ、とはフェミニズムの謳い文句だそうだ。だから、私はここから。弱者になるということはエンパワーメントだという上野先生に倣い、私は私の中の内面化された加害者に言う。「なんで私があんたの言うとおりにならなあかんねん」と。