弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

金曜稽古の帰り、前回「わからない」と書いた師のブログの記事について質問する。

私「死に捉われていると本当にやりたいことがわからなくなると書かれていますが、明日死ぬと思えばこそ本当にやりたいことがわかる、ということがあるんじゃないでしょうか」

師「Sさんの言うそれは死に捉われているのでなく、死から自由になっているんです。なぜ二つを違う話だと思うのか。死の恐怖から自由ならば、不死も明日死ぬのも同じことです」

私「ははぁ・・・・・・・・・」

武術は矛盾の塊です。あるいは武術には矛盾という概念がありません。それは相対性を超えたものだからです。

と師の仰る通り、字面だけだと不可解なことも、文脈がいったん理解できるとそこからぱあっと視界が開けてくる。それは風通しの良い、新しい場所に出た感じがする。しかしと言うか、しかもと言うか、私の理解などまだほんの端緒だろう。

で、あなたはどうも思索に偏りがちだが、もっと身体的攻防に関すること、具体的な暴力に対応することをやりなさいと言われた。それは単に実技の稽古を増やすことではなく、知覚と認識の領域を拡げることだと仰る。そうする。

考えてみると、そういう意味で最近一番ためになっているのは、子供空手の時間のミットワークかもしれない。「無理なく無理させる」位置にミットを差し出し、タイミングを合わせて中心で捉えるのは、打撃の軌道を見る稽古、受けの稽古にもなれば、相手のことを慮る稽古にもなる。

実技ではほかに、指の張り(太極拳)や腕の捻り(空手)に先導させて残りの部分をモノ・無機物として扱う、あれがこの頃本当におもしろい。数珠つなぎに理解されるいくつかのことを師に報告すると「だから前からそう言ってるじゃないですか」とほぼ確実に言われるけれど、何はともあれ、わかったうえで套路を行うと、先導する部分と無機的な部分が全身をうつろうのが感じられ、よくできてるなあと感心するのだった。これと用法が結びつけばいいんだが。