弟子のSです

武術の稽古日誌

忘れようとしても思い出せない

集中すると周りが見えなくなる。私のそれは集中ではなく熱中と呼ぶのだという。直せと師からさんざん注意されているのだが、この怒涛の集中力に助けられた経験も今まで多くあり、いちがいに悪者扱いすることができない(人の性質とはおしなべてそういうものではないでしょうか)。なので課題は、集中すべき時とそうでない時を使い分けられるようになることだと思っている。稽古中は、当然ながら、周りが見えなくなるような集中にふさわしくない。

というのも、稽古でそれをやるせいで、内容の記憶にムラがあるからだ。教わったことを考え続けている間に稽古が先に進んでいる。教わったことを「印象の強かった順」に覚えている。それが師の伝えたい内容の重要度と一致していればまだしも、大事なところに限ってうろ覚えだったりする。「なぜ右から左に抜けていくのか」「弟子を名乗る以上は教えたことを私のバックアップになるくらい覚えていて当然だ」と言われると一言もない。

こんなことを書くのもどうかと思うが、学生時代は要領と勘の良さ(プラス試験前の集中力)により偏差値は低くなかったのである。しかし地頭の悪さは社会に出て隠しきれるものではない。緻密さ・丁寧さ・精確さの求められる武術ではなおさらだ。責めてるんじゃない、と師は言われた。責めるのでなく(バカさに)嘆息しておられるのだと思うと泣けてくる。

先月から始めた囲碁だが、これは先読みする力と、「分散集中力」とでもいおうか、全体を集中して見渡す力がつくと思ってやっている。

「将棋が戦争なら囲碁は経済である」という。王獲り合戦である将棋に対し、囲碁は性格のないのっぺりとした白石と黒石による陣取り合戦であって、えらく抽象的・非言語的だ。私はまだ81目しかない小さな9路盤というのしか経験しないが、19路盤では361目というやたら広い盤面に石を置いていく。様々な要素が絡み合って全体が形を変えていくさまは確かに「経済」らしい(でも現代的な意味ではこれこそ「戦争」かも)。

ひと月かじっただけでも「アタリ」という、あと一手で石が取られるリーチの状態をだいぶ見落とさなくなった。あの広大な盤面の、推移する局面のその時々で、全体的かつ局地的に危機の気配を悟れるようになったなら、その頃には私の過集中の悪癖も改善されていることと思う。