弟子のSです

武術の稽古日誌

このごろのこと

弟子とは師との契約において「山のカラスが黒かろうと、師が白と言えば白」と、おのがエゴをドブに捨てることを承服した者のことである。

それはこちらの記事にあるように、

師が命じていること=弟子が望んでいること=武術が要求していることの三位一体が成立しているので、事実上、理不尽な無理難題を押し付けられるということはない

からだし、

見ている領域の違いによる実力差があるとき、一段高い(深い)領域の人間の意図は、低い(浅い)領域の人間にはわからない

からだが、武術を始めてわかったのは、私は、ものすごーく我の強い人間だということだ。我を張りすぎて先ごろプレ破門というか、1年間様子見の身となったくらいで、なので、このブログも今や正確には「弟子のSです」ではなく「弟子であろうとするSです」なのだが、それでも、武術を修めるのに(というか、普通に幸せに暮らすのに)おそらくは決定的な障害となる、この「我」の存在に一生のうちに気付けたことは僥倖と思っている。私が武術をするのは、復讐心や私怨からではない。

ところで、武術家の弟子でいるというのは、上記のような精神面だけでなく、フィジカルな面でも当然要求されることがあるのだった。師は先日次のように言われた。

「パートナーを務めるのに師に手加減してもらう弟子っておかしくないですか?」

受け身がなっていないと仰るのである。あるいは基礎鍛錬の腕振り。「できるかどうかでなく、やっているかどうかを見ている。あなたはやってない」。

これが無理難題でないと思えるのは、ひと月ほど前、稽古中のデモで師の双按に対して後ろ受け身がうまくとれず、後頭部を強打してしばらく浮遊状態になった経験があるからだ。そうしたソフトなかたちで警告が与えられたから良かったものの、調べれば似たようなことで死亡事故だって起きているのである。

ミットワークも、稽古で師の蹴りを受け損ねてケガする寸前の危機一髪を経験してから練習して、その後は割合どんな蹴りにも対応できるようになった。必要は進化の母である。

私はもう、自分の意志やらエモーショナルなものにあまり重きを置いてない。向こうからやってくる必要に応える、それだけ。とても素朴なことだ。