弟子のSです

武術の稽古日誌

追求は解放なこと

これだけやっていてとぼけるな、と言われるのだが、たとえば、武術的な力量についての相対的な話、誰と誰のどちらが上か、みたいな話が私にはどうも飲み込みにくい。師の頭の中では、武術家としての視点から、ご自分が誰より上で誰より下かという位置付けが明確にあるようだ。

師「なんでわからないの。あなたは赤ちゃんや老人を倒すために稽古しているのですか?」

こうした質問に答えられないのは、「武術的な力量」が「殺傷能力・倒す能力」を指すのか、それとも「生き残り能力(サバイバビリティ)」を指すのかがわからないからだと思う。たとえば赤ちゃんなど殺傷能力はゼロでも、「思わず周囲が守りたくなる可愛さ」など優秀なサバイバビリティを備えていると言えよう。武術的力量でいえば私より上と言えなくもない気がする。赤ちゃんは「倒そうと思われない」「大切にされる」点において弱いが強いのだ。

「武術的な力量」とは?「相手を倒す」とは?「生き残りやすさ」とは?「死ににくさ」とは?・・なにかと定義が自分の中で曖昧なので、武術において誰が誰より優れているか、または劣っているかの判定ができない。判定しようとする意義もわからない。ヘビを100匹木箱に入れて戦わせ、残った1匹はあとの99匹より死ににくさにおいて勝ると言えようが、自分がその1匹になりたくて、あるいはなるたけ最後の方に残りたくて向上心を燃やしているとも思えない。ヘビにはむしろ木箱をかじれと言いたい。

仮の結論としては、修行者である以上、力量は「武術に近いか遠いか」「見えている領域(世界)の違い」で測るということだと思う。見えている領域の差が武術的力量の差になる。

師がいつかツイッターで書かれていたが「この世に信頼できる武術など存在しない」。しかし信頼できる武術は存在しなくとも、信頼できないまずい武術というのは存在する。それは理解が進むほどに見えてくる。師がふだん私に仰ることが「それは武術ではない」「それは太極拳ではない」とほとんど否定形なのはそのせいだ。私に未だ見えない領域が師には見えている、その点において師は私の師なのである。

このように、修行においては「定義地獄」「意味地獄」と言えるほどに理を突き詰めることになるが、しかし武術の面白さの一つは、意味を一心に考えても考えても、それで囚われて不自由かというとそんなことはなく、意味の本質に迫るなかでむしろ自由であることです。