弟子のSです

武術の稽古日誌

あなたの内側はどこですか?

前回の記事に続き剣術の稽古の解説をせよとの課題をいただいた。それは次のような稽古であった。

開いた左手の上に剣を載せ、コの字型に右手を添えて剣を立てて構える。安定と不安定の中間にあるこの状態に剣を保持し、意思でなく剣の落下に導かれて斬るようにする。
剣を立てた構えで敵と対向すると、当然ながら体のある方を斬ってくる。これが内側の危険なゾーンである。そこで剣の外側の安全なゾーンに一瞬で身体を移す。つまり立てた剣を不動点(エンドポイント)として「内」と「外」を行き来するわけだ。

剣を立てた構えを縦の八双という。二人で対向し、剣の交わる「×」の点を不動点・支点として動くと、縦の八双を中間点として構えは次のように推移していく。

霞の構えー青眼の構えー縦の八双ー横の八双ー逆の霞の構え

このことによって、構えは固定した静的なものでなく連続した動きの一コマであることがわかる。また横の八双から顔を振り返ればそれがそのまま霞の構えになることから、エンドポイントを介して「内」「外」ばかりか「前」「後」も一瞬で変わることがわかる。


白桃会 剣術・内外の転換

剣術の稽古をなぜするのか。それは聞き慣れた言葉でいうところの「無我の境地」に至るように、だそうだ。この稽古も彼我の枠を壊す、また彼我が置換できる概念であることに気付くのがねらいである。彼我とは「敵—自分」かもしれないし、「刀—自分」かもしれないし、「世界—自分」かもしれない。あるいは後述するように「内—外」「前—後」「上—下」といった相対概念であるかもしれない。

客体が主となり自我が従となり、斬る・進むといった動作の決定機関が「よそ」に置かれる。稽古後に師に「あなたは皮膚の内側だけを自分と思っているが、そうではない」と言われたが、その言葉にならえば、動作の決定機関が「皮膚の外側の自分」に置かれる、ということだ。だから師は私にこれを「心法」だと仰ったのだと思う。

物理的な意味合いにおいて「内—外」「前—後」「上—下」を考えたとき、それらは自分と相手とエンドポイントとの位置関係を示すにすぎない。一瞬で変化し、定まっていない。動画で見るように、移動した自分は相手から見て剣を隔てた「外」にいるが、自分は剣の「内」に守られている。しかしそれは別の相手からは剣を隔てない「内」かもしれない。

その一方で、狭義では手足の親指側を「内側」と呼ぶ(例「外刈り」「内刈り」「外旋」「内旋」)。これは人間の形態が変わらないかぎり固定した絶対のものだろう。

「内側」は移ろう、移ろわない。どちらでもあり、どちらでもない。そうしたものを自在に転換する。

私は剣術が(他の術に負けず劣らず)、端的に下手であり、できないということはわかっていないことだから、師には、解説が難しければこの稽古のどこがわからないかを書きなさいと言われた。それで一週間以上、ああでもないこうでもないとやっている。

わからなさの核心は師の「あなたは皮膚の内側だけを自分と思っているが、そうではない」という言葉にあるようだ。以前に似たような話をしていて、私が「では先生は(そのへんにあるものを指して)あれとかも、これとかも、リアルにご自分だと思ってらっしゃるんですか?」と尋ねると、師は次のように仰るのだった「ここにあるもので俺じゃないものなんかないよ」・・・・・・。

はっきりしているのは、自我を従とし客体を主にして動くと表現はとても美しくなるということだ。リンク先は大道芸の動画だが、俳句も同様だろう。黒子になる、ということ。
https://www.youtube.com/watch?v=PTXOxVfXUGM

参考記事
自由と奴隷 http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-258.html