弟子のSです

武術の稽古日誌

武術ゆく年くる年〜2017年の組手

2012年2月に師の弟子として武術を習い始めて7度目の冬である。先日撮っていただいた組手の動画から現状を総括してみたい。師からは技術より精神状態の分析をせよと指導されている。

稽古時間の大半をあてた長尺の組手(*追記あり)で、始めこそ集中してよく反応しているものの間もなく余裕がなくなり、体が覚えているだけの動きで、悪く言えば惰性で動くようになった。動画は3カットから成っているが、1カット目でもう息が上がり(1:55)、あとは攻撃に反応するというよりは蹴りを回避することに意識が偏っている。攻撃をくらうほどに「情けない」という感情が押し寄せてくる。
6年やって少しも上達していないという悲しみに、5:41から始まる3カット目の直前には実はおいおい泣いていた。まだやるのか、という気持ちから始まるのがこのカットだが、7:09には「先生もうやめよう、こんなの(人に)見せてもしょうがないよ」とタメ口で訴えている。しかしその直後(7:35)に靠(カオ)が決まり、腕十字をかけられたラスト、「今のセーフ」という往生際の悪いつぶやきで動画は終わる。
動画が公開されるといつも思うことだけれど、穴があったら入りたい。・・7:35は、今年一番のスマッシュヒットだが。

終わって師に言われたこと。
・技や動き以前に、入神していないことが問題。
・ネガティブな感情が湧くのは「自分はもっとできる」と思っているから。

組手中の私の心情は「自分が情けない」「こんなの人に見せても意味がない」という言葉に集約される。会の広報・宣伝という観点からも、記録して公開する価値がないように思う。私の中の「成長信仰」がそう思わせるのだ。

人と比較をして劣っているといっても、決して恥ずることではない。けれども、去年の自分と今年の自分とを比較して、もしも今年が劣っているとしたら、それこそ恥ずべきことである。(松下幸之助

私の心情はまさにこの「成長していないのは恥ずべきこと」という考えに根ざしている。

人と比較して落ち込むことはずいぶん前になくなった。この世界で最弱の部類に入るだろう私は、人より劣っていることにいちいち凹んでいては稽古を続けられないからだ。私の関心はもっぱら「自分自身が良くなり続けること」にある。だから成長がないと知るやがっかりして、そんな姿を「人に見せても意味がない」と思うのだろう。
その時の気持はつらいが、落ち込む自分を私は肯定している。むしろ成長しないことに落ち込まなくなったら終わりだ、くらいに思っている。

・・と、ここまで書いて、何か違和感に気づいた。

私のめざすもの、つまり武術の求めるものは「あらゆる対立構造の解体」だ。それが組手で実現するとき、たぶん、誰も見たことがないような組手になるはずだ。それが狭義の武術の枠を超えたものだから私がやる意義があるのだし、勝ち負けに関するというよりどちらかというと創造に関することだと思うから、やっていて面白いのである。

対立構造をなくすということは、相手なくしては考えられない。

人と比較して劣っていることにこだわるのは誤りだが、過去の自分と比較して、あるいはあるべき(と私が思う)自分と比較して劣っていることにこだわるのも、同じたぐいの誤りなのかもしれない。それは「相手の不在」という誤りだ。

良かれと思ってすることはしばしば仇になるから、自分が良かれと思うことそのものを疑ってかかる習慣をなくさずにいようと思う。私は松下幸之助先生の言葉に思わず「いいね!」を押すようなタイプの人間で、その言葉が間違っているとも決して思わないが、武術が求めるもの、つまり「入神」や「ファンソン」や「没我」といったものを得るには、もしかしたら向上心は仇になるのかもしれない。向上心はどこまでもひとりの自分、個に属するもので、関係に属するものではないからだ。
少ない経験から言えるのは、「入神」や「ファンソン」や「没我」という状態にあるとき、「自分」という感覚は溶けてしまうものだということ。そうして彼我の対立が解消すると、そこにはただ関係だけというか、連関する運動しかのこらない。
おそらく師の指摘はそのあたりに関わることなのだと思う。これは来年の課題だ。

自分が良かれと思うことを疑うのは足元が崩れるような不安なことだけれど、そもそも足元に磐石な何かがあるというのが思い過ごしなのかもしれない。
総括の結果、たいへん覚束ない心境で年が暮れていくことになったがこれも機縁であろう。

ということで2018年につづく。サイトの引越しなどありましたが、今年も読んでいただきありがとうございました。

*追記:師より「実相を捻じ曲げている」との指摘があった。組手は10分に満たないもので、それが「稽古時間の大半をあてた」はずはない、とのこと。撮影とその場での編集を繰り返し、それでも(帰ってから作業が大変だろうなぁ)と思った覚えがあるためそう書いたのだが、そうなのか…。動画はダイジェスト版とばかり思っていた。
「印象」は何気なく書いてしまうだけに危険だ! 発する言葉が「事実」なのか、それとも「印象」なのか、これも自分を疑って意識化する癖をつけよう。この習慣付けはすごく大事だと思う。