弟子のSです

武術の稽古日誌

なぜ導師ウーグウェイはタイ・ランを後継者にしなかったか

自分は師から武術を学ぶ弟子である。
そう思い定めて私が勝手に精進するのはいいとして、長年うっすら疑問に思ってきたのは、師のほうではなぜ私を弟子と呼び、弟子として教えるのかということだ。(私よりも周囲の方のほうが不思議に思われているかもしれないが...。)
師によると、指導者という立場の人間ならば、教える相手がものになるかどうかは大体初見で見当がつくものらしい。いや、正確には「ものにならないかどうか」の見当がつくらしい。つまり「この人はダメだな」というのはわかるものだそうだ。
どんな人が「ものにならない」のか、武術家からみて「ダメ」なのか。師の思考に少しでも近づくよすがになることを願いつつ、2008年から2016年にかけて公開されたアニメ『カンフー・パンダ』の主に1と3について論考を試みる。

カンフー・パンダ (字幕版)

おおよそのあらすじは、カンフーファイターのイメージに全くそぐわないパンダのポーが、ひょんなことから導師ウーグウェイによって伝説の「龍の戦士」に選ばれる。指導をまかされて戸惑う師父や反発する兄弟子、あるいは家族や敵とのやりとりを経て、やがて村を守る戦士に成長し、ついには自分が氣を操る「龍の戦士」であることに目覚める、というもの。

ポーを教える師父にはもともとタイ・ランという、師父自らが「龍の戦士」と見なし手塩にかけて育てた弟子がいた。しかし鍛え上げられたタイ・ランを見ても導師ウーグウェイ(師父の師父)は首を縦に振らなかった。自分の後継者、龍の戦士ではないというのだ。

なぜタイ・ランではいけなかったのか。それに関連する台詞を探すと、兄弟子のトップであるタイグレスが主人公ポーに次のように説明する場面がある。「導師はタイ・ランの心に闇を見たの」。
養父でもある師父に「大龍(タイラン)」と名付けられ、偉大な戦士になる運命を言われるままに信じて疑わなかったタイ・ランの上昇志向は激しいもので、やがてウーグウェイによる極意の書かれた「龍の巻物」を欲しがるようになる。タイグレスによれば「彼は欲をかいた」のだ。タイ・ランを後継者と認めないウーグウェイは無論それを許さなかった。

結局あとでポーから奪ってタイ・ランは巻物を見るのだが、巻物にはひたすら何も書いてなく、彼は失望する。その様子は、巻物の空白の意味をつかんで学びとするポーと好対照を示す。
お調子者でミーハーな、太ってすぐ息切れする、カンフーファイターのイメージとはおよそかけ離れたポーには導師の伝書の意味がわかり、何十年も厳しい鍛錬に耐えて鉄拳や脚力や柔軟性を身に付けたタイ・ランにはその意味がわからない。そして彼がわからないだろうことを、負の資質を、導師はずっと以前に見抜いていた。

見るべき人が見ればわかる、「負の資質」とは何であろうか。

師父への恨みに燃えるタイ・ランに、かつての師父は「おまえは龍の戦士になる運命になかったのだ、私のせいではない」と言う。この言葉にタイ・ランはふざけるなと怒り狂う(そりゃそうだ)のだが、師父にしてみれば、導師が傍目には偶然(アクシデント)としか言いようのないきっかけで素人のパンダを龍の戦士に指名するのを目の当たりにし、さらにその後導師から「偶然というものは存在しない」と教えを受けている。「なぜ俺でないのだ」という問いには運命と答えるしかなかった。師父もいまだ目が昏かったのである。

ちなみに師父はこの後ウーグウェイの教えを理解し、シリーズの3ではポーの浅薄さを正して「殴る蹴るで敵と戦うことが龍の戦士の仕事だとおまえは思っているのか? 導師がおまえの中に見出したのはもっと大きなもの(greatness)だ」と教える。

導師が「何」をポーに見出したかは、物語の後半で「龍の戦士」として覚醒したポーに導師自身が語る言葉によって明かされる。導師は若い頃にパンダ一族の氣の力で命を救われたことがあり、真の強者、つまり龍の戦士が氣の使い手であると知っていた。そこに「偶然の、しかし運命的な」パンダのポーとの出会いがあった。

ウーグウェイ「出会ったその日に、私はカンフーの未来をあなたに見ました。(パンダに癒された)過去と、未来とをつなぐ者を見たのです。それが私があなたを選んだ理由です」

この台詞から推察するに、導師がタイ・ランを後継者にしなかったのは、彼にはカンフーの未来を見なかったから、ということになろうか。導師の視点は人よりカンフーにある。

タイ・ランの野心にぎらつく目を見て、導師は(そうした目をおそらく彼は何人も見てきただろう)それは「調和と集中の極意」たるカンフーに何も寄与するものではないと看破したのだと思う。「敵を倒す」「相手を凌ぐ」という相対性の中で上位に立とうとすることしか知らない者の中にカンフーの未来はない。ポーを後継者とした導師は、彼を「陰と陽の両面を併せ持つ者」と称える。パンダの白黒カラーがもじられていて可笑しいところだが、ここは同時に「相対性から自由な者」と読み解くのがふさわしいだろう。

自戒を込めて考える。相対性(上昇志向や目的意識)の虜になることなく修業を進めるには、人はどうしたらいいのだろう。
「武術から」自分へと届けられた道を見ようとすること、そこを歩むことではなかろうか。自分から「武術へと」進む道を歩くのではない。武術を未だ知らない「私」が武術を目指すことは理論上不可能だ。人は知っている場所しか目指せない。もしもそうしたら、武術を卑小化していることになるだろう。自分の知っているものに落とし込んでいるわけだから。
その偉大さ(greatness)を知っていれば、「私」は武術を指向できない。「もし誰かが僕を変えられるとしたら、それは僕じゃない。」あなただ、と師父に叫んだポーは未熟だが正しかったのである。

そしてこの台詞と好対照をなすのが劇中でいくつかのエピソードを通じて印象的に伝えられる、次のメッセージである。「教えられるものなんてない。秘伝なんてない。何かを特別なものにするには、それを特別と思うだけ」。秘伝、極意、強大な力・・血眼になって求めるべき特別なものなど本当は存在しない、それを特別にするのは個々人なのだ、という。

あなたが変わるとしたら、それはあなた自身によってではない
何かを特別なものにするとしたら、それはあなた自身によってである

カンフー・パンダ』は修行における主体のありかというものを考える上でとても示唆に富む作品だ。今回は敵役のタイ・ランについて考えたが、修行者であれば主役のポーの成長の過程からも得るものが多いだろう。彼を取り巻くキャラも魅力的で、まずアニメ作品として出色の出来だと思います。