弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

最近「シンギュラリティ(技術的特異点)」という言葉を耳にする。人間のAIに対する優位性が逆転する時点のことをいうのだそうだ。

たとえばAlphaGoはディープ・ラーニングという学習能力を獲得し人間の棋力をあっさり抜き去ってしまった。「手筋」より「学び方」を身に付けたのである。私も武術は「技」より「考え方」と指導されて久しいが、成長速度では完全にAIに遅れをとっている。

言いたいのは私がAlphaGoより遅咲きだということでは勿論なく、このまま人間の脳を模して進化してゆくと遠からずAIが「意識」を持つ日が来るかもしれないらしいのだ。映画や小説みたいな話だがリアリティがある。

師が過日、ツイッターで「人間が恐れているのはAIに負かされることではなく、人間もAIと同じものにすぎないと分かることなのかもしれない」と呟かれていたが、人間の「意識」も神経細胞を介した脳の挙動であってみれば、ある意味において「人間とAIは同じ」であるとは当然言えると思う。
(思えば自らの帰属を「霊長」類と呼ぶほどに人間はその優位性に自信満々だが、自信を持つところをちょっと間違えてはいまいか。人間とAIは「同じであり、同じでない」。武術をやっているとこうした物言いが不自然でなくなる。)

何はともあれ、我々が「優位」感覚を抱くに足るような、実体としての「主体」はない、というのが最近の私の考えだ。「主体」という言葉は発した途端に世界を彼我に分離する。しかし(少なくとも太極の世界観において)彼我は別たれていない。我々は感覚の主人だから意識においては当然に自分が主体だが、それは「思い過ごし」だ。

太極拳を行うにあたり、「主体」やら「自己の優位性」といった概念をどう捉えているかはストレートに套路や技に反映されるから、ここはとても大事なところである。
たとえば太極拳では動作の目的に応じて自分の身体を滑車やジャッキといった「無機物」にトランスフォームするけれど、私(主体)がその無機物(客体)を「扱う」のでは太極拳の動きにならない。投げ技をかけようというときも、私(主体)が相手(客体)を「投げる」のでは太極拳の技にならない。

太極拳の動きは、自分の内外の「客体(価値観が加われば”異物”ともいう)」と「同期」しないとできない。というか、「主体」というものは幻想なのだ、と心底理解しないかぎりは嘘っこの同期しかできないだろう。

師から太極拳を習い始めて9年経つ。その間に教わる内容はかなり変化した。それは徐々にというより、ある時を境に、という変化の仕方だったように思うけれど、ここに来てまた新たなステージに踏み出しつつある。「動かす主体をなくすこと、なぜって元々ないんだから」みたいな感じに。動かす何かは厳然としてあるのだが、それは「私」ではない。

足は手につれ手は足につれ、というように主従が渾然とした動きを長く稽古してきたが、その「何かが何かをつれていく」動作を見えなくするという。書でいえば、因果の明確な楷書を研鑽した上で、楷書を「書きながら書くな」、それが草書だ、と言われているようなものだ。

むずかしい。武術を始めてからというもの、知力体力ともにスペック以上の課題にばかり取り組んでる気がする…。こうした学び方は人間独特、てか「弟子ならでは」かもしれない。