弟子のSです

武術の稽古日誌

武術ゆく年くる年

今年もあれやこれやと課題を残しつつ暮れていこうとしているが、年内最後の稽古で面白いことを教わったので図説する。
それは突きへの対応に関することだ。

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①まず、突きを手の甲で受ける。これは普通に痛いし、相手の力によっては手を破壊されてしまうかもしれない。

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②次に手を裏返して、手のひらで受けてみる。すると俄然当たりが柔らかくなり、同じ力でもあまり痛くない。

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③さらに、突きをこちらから迎えにいってみる。こうすると全然痛くないというか、もう、そもそも「当たっていない」。

②も③も、ストレッサー(ここでは突き)に対する太極拳の処し方を示している。前者は「自己を変形させてその場から退かずに身を守る」、後者は「くっついて離れない」。
通底する考え方は「我慢をしない」ということだ。ストレスは外部の刺激が「負担」として働くときに初めてストレスとなるので、負担がなければ我慢は「しない」というより「する必要がない」。北欧のことわざに「悪い天気というものはない。あるのは悪い服装だけ」というのがあったと記憶するが、稽古が進めば進むほど楽になるといわれるのは、太極拳が「ストレッサーをストレスにしない術」の宝庫だからだと思う。

今年は同居の80歳になる実母が心身ともに弱って要支援状態となり、自分史的には「介護元年」とも言える年だったけれど、先の見えないことだけに、介護というストレッサーをストレスにせず、持続可能な暮らしがしたいと思っている。そんなときだから、タイムリーな教えが印象に残った。
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市民講座の生徒として師から太極拳を習い始め、来年の秋には在籍10年を数えることとなる。三度目の冬に師弟となり武術の稽古を始めたが、稽古年数を重ねるほどに、自分がどれだけ芸の無い人間かがしみじみと理解されてくる。今年、夏か秋だったか、稽古中に天啓の如く「私は師に到底かなわない」と距離を悟ったことがあり、それを師に話したところ「今ごろ気づいたんですか」と呆れられた。そして「そう気づいたことで近くなったかもしれませんよ」と言われた。悲しみとは違う、乾いた諦念のようなものがそれ以来胸にある。

というわけで、自慢にもならないが「へなちょこ」「向いてない」というのが、おそらくは私の原点なのである。女性なのに、歳をとっているのにすごい、と私を褒めてくださる方がいるが、すごいとしたら「女性でも、歳をとっていても、どんなでも、やろうと思えば問題なくできる武術」がすごいんだろうと思う(いや、あんたには問題しかないだろ、という声はおいといて)。

以上が10年目を迎えようとする今の心境だ。この間(かん)、師が私を指導者や後継者にでなく、一貫してひとりのファイターに育てようとしてくださっていることに感謝している。
子供空手の男の子の挨拶を真似て今年の締めくくりとしよう。どうぞ、皆様
「すごいお年をお迎えください。」