弟子のSです

武術の稽古日誌

感じを習う

このところ護身術教室の生徒の間で杖がブームで、遅ればせながら私もマイ杖を購入して親しんでいる。握り締めず、構造で支えて、手の中で滑るように持ち、受け流す。杖は「捨己従人」の奥義を知るためのよい稽古になると思う。
「捨てる」とは?
 捨てる主体である「己」とは?
「従う」とは?
 従う客体である「人」とは?
そうしたWhat?について、あの棒が、言葉でなく感覚で教えてくれる気がする。

30代の後半から10年ほど英語の勉強にはまっていた。外国語学習には波があって、プラトー(平坦な、いわゆる伸び悩み状態)とブレイクスルー(急激な伸び)という二つの時期を繰り返しながら力がついていくといわれているが、私が自分のブレイクスルーで体験したのは、英単語の意味が「語感」としてわかるようになったことだ。

語感がわかるとは、たとえば「run」という単語に触れたとき、「走る」という日本語が思い浮かぶのでなく、何というか、手と足を勢いよく振る「あの感じ」、正面に風を受ける「あの感じ」、息遣いが速まる「あの感じ」…という「’走る’ にまつわるあの感じ」が総体として即座に連想される、ということである。
単語帳の対訳を「覚える」のと違い、語感はいったん「知る(感得する)」とその後忘れにくいようだ。英語から離れて久しい今でもそれなりの語彙が保たれているのは、たぶん「語感の保持」が記憶力の仕事ではないからだと思う。

武術の稽古で求められるものも、単に技の手順の習得ではないとすると、ある意味「感じ」の習得と言えるのではなかろうか。
「感じ」は直接言語化できないものだから(言語化できるくらいなら「感じ」と言わないはず)、言葉だけ受け取って理解するのは、少なくとも私には、とても難しい。わからない、という長いプラトーに耐えながら、わかった人の助けを借りつつ自助努力するしかないのだと思う。わかる日は突然来て、それは一瞬の出来事である。一旦わかると二度とわからなく(できなく)ならない。私の数少ない経験ではそうだ。

杖の稽古の先に、演武について理解のブレイクスルーがあるといいな。

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しばらく、といっても数週間ですが、ブログを非公開にしていました。武術の稽古が「感じの習得」であることに関連するかもしれませんが、学んだことを言葉で伝えようとすると、何をどう書いても不正確な気がして、公開する益がないと考えたからです。
しかし過去記事には師からコメントを頂いているものもあり、それを学習に役立てていらっしゃる方がいると知って元に戻した次第です。そうした方々がいらっしゃることで、はじめて、拙文を公開することが武術への恩返しや貢献に少しはつながるのかもしれません。訪ねてくださる奇特な方にお礼を言いたいと思います。