弟子のSです

武術の稽古日誌

演武とは何か

去年あたりから稽古に「演武」という種目(?)が加わったが、できたりできなかったりして安定しない。(全くできない、と書きたいところだが、褒められたことも数回あるため、正確を期すとこうした書き方になる。)

記憶するかぎり、たとえば型稽古中に「それは型稽古ではない」とも、組手中に「それは組手ではない」とも指摘されたことはない。しかし演武をしていると、しばしば「それは演武ではない」と中断される。そこで注意されることは、例によって「Aと非Aを同時にやれ」のように矛盾して聞こえる。「太極」が陰と陽とを矛盾なく抱合するように、そこには高められたクリアな解があるはずなのだが、今はまだ見えない。

そこで師に課題を出された。型稽古、組手、演武。この三つを定義すること。むずかしい問いだ!
「〇〇は××のようなもの」といった説明では「定義」にならないだろう。「では××とは何か?」と追加の定義が必要になるからだ。別の定義を要しない表現でそれぞれを説明するには・・・。うーんと唸って考えて、人数で区分できるのではないかと考えた。

型稽古とは、1人でも成立する稽古。
組手とは、2人でも成立する稽古。
演武とは、3人以上でなければ成立しない稽古。

「型稽古」は道場でするように複数人でもできるが、家で1人でもできる。「組手」は1人ではできないが、2人の人間がいればできる。ここにおいて「演武」は3人以上の人間がいなければできない。3人目の人間とはオーディエンス、見る人のことである。(組手が2人「でも」成立するというのは、見る人の有無を問題にしないということ。)

演武に欠かせないのは3人目の存在。それは必ずしも物理的な頭数のことでなく、たとえ3人目がそこにいなくとも、実技する2人が「見られている目」「見せていること」を意識すること。またその対象は生きた人にも限らず、先に世を去った人や、神のような次元を超えた存在をその場に意識するということでもあるかと思う。演武が鎮魂や奉納につながるとは、そういうことだろう。英語でいうところの「dedication」。
dedication:献身。専念。(人・理想などへの愛情、敬意のしるしとして)作品を捧げること

つまり演武では、実技する者は、自分たち以外にそのパフォーマンスを見せる、文字通り「演者」になるということ。

定義がこれで整ったと仮定して・・では「演者になる」とはどういうことか。もっと言うと「この私が演者になる」とはどういうことか。
自慢ではないが、武術に向いてない、と負のお墨付きを師からもらっている私だ。そもそも師の「教え子」であって、武術的力量や技巧において師とバランスしていないことが明らかな私が、師とともに演武する、そのことの意味。師が繰り返し私に演武の相手をさせることの意味。

それは、向いてないとか上手くないということが、演武ができない理由にならないということだろう。そもそも師の教える武術は、上手くなる日を夢見て稽古するものではなく、(できるまで待って、とは敵に言えないのだから)どうでも今の自分のままで戦えるようにするもの。ならばその武術を体現する演武も、今の私のままでできなければならないし、できるはず。そもそも「できる」より「する」のが演武であるはずだ。二人の演武で、師と私との「段違いの実力差」しか見る人に伝わらない、というのでは本当にお粗末なのだ。

適性がないなりに太極拳を10年やってきて、身についている・いないはともかく、「無訓練である」とはさすがに言えない。背伸びは無意味だけれど、何にもない、というのもまた嘘だと思う。師はブログの記事で、私の演武について「見ている人に何をどう伝えたいのか」「自分のやっていることがどう伝わっているのか」が課題、と書かれていた。ということは言葉の前提として、私は伝えるべき何ものかを既に持っているのだ。技の原理や、仕組みの緻密な再現性という点では現時点で難有りな私でも、演武を通して伝えるべき何かを持っている。何もないと思えば、師は私に演武をさせないだろう。

何を、どう、伝えるか。「演者になる」というのはその「どう」の部分、伝えるハウツーの部分をいうのかもしれない。見苦しい挙動をしないこと。好ましい所作で戦うこと。できないことで怯えず、できることで独善に陥らないこと。いい意味でポーカーフェイスでいること。なぜそうするかといえば、そうしないと「3人目」に伝わらないから。
演武は何に似ていますかと師に問われたけれど、こうして考えると演武は演劇的だ。共演者の息を読みながら、観客にどう伝えたいか、どう伝わるか、の「どう(How)」を意識する。それを徹底したときに初めて、私が既に持っていたものが何か、私たちが何を創ったのか、私たち自身も知るのかもしれない。

演劇の「え」の字も知らないのに、気がついたら演劇がどうとか書いているが、おりしも今朝のNHKの朝番組に綾野剛くんが出ていて、こんなことを言っていた。「台本を読み込んで、こうだと思って現場に行っても、相手の役者さんは(自分の解釈に反して)泣いているかもしれない。その時どうするか」。
演武にはシナリオがなく、演劇的といってもセッションに近い。「相手は〜するかもしれない、その時どうするか」を最初から最後まで問われているようなものだ。綾野くんは、それは現場で感じるものから吸い上げる、みたいなことを言っていた。綾野剛でこの稿を締めくくることになろうとは思いもよらなかったが、次は私もその心づもりで「現場」に臨んでみよう。

参考記事:
http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-388.html合気道当身考」
http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-470.html「試合と演武」
http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-476.html「本年最後の更新です」
http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-478.html「演武の意識」
http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-489.html「最近のつぶやきからーツールからシステム、存在へ」