弟子のSです

武術の稽古日誌

武術ゆく年くる年

今年も早や大晦日となりました。毎年暮れになるとその年の総まとめ的な記事を書くのですが、今回は「俳句」に特化して書いてみようと思います。

直近の句会は去る11月19日に目黒区駒場で行われ、日本民藝館で古い壺を鑑賞したり、東大駒場キャンパスでのランチや駒場公園の散策を楽しみました。当日の模様は師による句会記に詳しいですが、私は例によって当日中に句ができず、恐縮しつつ宿題にさせてもらいました。

日本民藝館には「日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工など、無名の工人の作になる日用雑器、朝鮮王朝時代の美術工芸品、木喰(もくじき)の仏像など、それまでの美術史が正当に評価してこなかった、西洋的な意味でのファインアートでもなく高価な古美術品でもない、無名の職人による民衆的美術工芸」が多数展示されています(←Wiki丸うつし)。

1階のホール左手、入館してすぐのところにガラスケースに入った壺が展示されています。その壺を見ながら奥へ進むと、大きく切り取られた窓から裏庭が眺められるようになっていて、そこにもずらりと壺が並べられています。屋外の壺の「野性味」と、屋内の壺の「丁重に扱われ感」とのコントラストを次のように詠んでみました。

庭 の 壺 ガ ラ ス ケ ー ス の 中 の 壺

志賀直哉ばりに写実に徹して、読む人自身にイメージを対照してもらおう、とか考えていたような気がします。
これを師に見せたところ、うーん、と師は唸って「で、それについてあなたはどう思ったの?」と仰いました。
(私はどう思ったんだろうか・・・・・)

庭に置かれて外気に曝される壺と、ガラス棚に収まり人目に曝される壺。私自身は寒がりなので空調の効いた部屋の快適さが捨てがたいけれど、屋外で落ち葉を受けながら無雑作にたたずむ壺たちは、ワイルドで凛として、なんとも魅力的に映ります。それはかつて、武術に出合ったときの強烈な印象に通じるものがあります。
それで、次のように改めました。

秋 な ら ば 秋 の 風 受 く 野 良 の 壺

「秋ならば秋の風受く」は、室内の壺がどんな季節でも一定のエアコンの風しか受けないことを含意しています。「野良」という言葉は師にいただきました。
直したこの句を含め全部で5句提出したのですが、師にはこの句が最も佳い、と評していただきました。

さて、この句を作った翌週のこと。こちらの記事に登場する我が家の飼い鳥、コザクラインコの「イチ」が迷子になってしまいました。家のどこを探してもいないので、どこかの隙間から外に出て行ってしまったのだと思います。鳥を飛べなくするのはしのびないと、羽を切っていませんでした。

外を探すのはもちろん、交番に届け、人に尋ね、チラシを貼ったり配ったりと一通りのことはしましたが見つかりません。好奇心旺盛な子だったので、興味の向くまま外に出てしまったのだと思いますが、どこかで必ず(あれ?知らない場所だ・・)と思った瞬間があるはずで、それを思うとかわいそうで涙が止まりません。飼い鳥は人間の保護下でしか生きられないといいます。ましてや寒さに向かう時期。取り返しのつかないことをしてしまい、自責と悲嘆にくれながら日を過ごすうち、先の句をふと思い出しました。

秋 な ら ば 秋 の 風 受 く 野 良 の 壺

イチは奔放で感情豊かで遊び好きで、狭いケージに自分からは絶対入ろうとしませんでした。生まれて初めて屋外に出て、やがて寒くひもじい思いをすることになっても、そのときは風を心地よく浴びたかもしれません。秋だから、秋の風を。イチは、つらい思いだけを経験したわけではないのかも・・。自作の句に救われた気がしたのです。

そう気づいた後で元句「庭の壺ガラスケースの中の壺」を読み返すと、その表現がなんとも「よそごと」なことがわかりました。まるで血が通っていない。「私」がいない。「私」に欠ける句を師は「無!!」と一刀両断されますが、作っている最中には「写実に徹している」なんて気でいるのですから、愚かなものです。

ペットロスとよばれる喪失感は怒濤のようでしたが、以後、同じ喪失感でも少しずつ受容的なニュアンス—英語でいうところの「miss(いなくて寂しく思う)」—が混じってきているように感じます。I miss you.「愛しい」と書いて「かなしい」と読むような。心の底に悲しみを抱えながら、日に日に私は元気になります。

そんなこんなで暮れて行く2019年ですが、俳句以外でいうと今年は演武の何たるかについて少し理解が進んだり、師との対話が録音され公開されたりしました。実技の稽古はもう少し増やしたいところですが、家庭の事情もありなかなか難しいものがあります。
年内の最終稽古を終えて師は、私の来年の稽古について「インサイドワークに移行していくだろう」と仰っていました。インサイドワークとは何でしょうか? 例によってさっぱり予測がつきませんが、与えられた課題をこなし、ダメ出しに長考し、という、相変わらずのことをやっていくことになると思います。

一陽来復、来年がいい年になりますように。