弟子のSです

武術の稽古日誌

失敗メモ

あけましておめでとうございます。年明けからやらかしております。

師の単按に対して受け身がとれず、自由組手で後頭部を床に打ち付けることが続いたため、昨年末、経過措置として初稽古までに後頭部の防具を用意せよとの指示を受けた。年が明け、初売りに賑わう街を探し歩くこと数件、求める防具はどこにも見つからず、とりあえずラグビーのヘッドギアをネットで注文した。しかし「後頭部を守る」ということで模索するなか、脳震盪を防ぐには首に筋力を付けるのも有効という知識を得、いいかも!とツイッターで披瀝したところ、師よりリプライをいただく。以下、記録。

師:受け身が取れないのは投げられて落ちるまで投げを感知できてないからで、つまるところ薄ボンヤリしてるからです。意識に隙間がなければ投げられる直前には『防げなそうだから受け身の準備をしよう』と思い、自分から被害を最小限に抑えるように受け身をとっています。

首の筋力を上げるという解答は、株で損しない方法は? という問いに、元金を青天井に底上げする、と答えるようなものです。常に未然の予防が第一です。リカバリーは予防ができたあとの課題です。

S:首を鍛えるのは受け身そのものにでなくリカバリーに有効なんですか。わかりました。

師:受け身とはなんですか? 運動をさすものですか? それとも心の働き、反応ですか?

受け身が取れないのはハードの問題ですか? ソフトの問題ですか?

S:間に合うものには受け身が取れても、勢いがあったり速いと間に合わないことを考えると、問題は「反射」だと思います。反射はハードの問題かソフトの問題なのかわかりません。

師:問いの立て方が間違っています。私が投げる速度はどれも一定です。青天井で勢いや速度が上がっている訳ではありません。「私が勢いがある、速い」のではなく、あなたが感知するタイミングが遅いとき、それを「勢いがあると感じる、速く感じる」だけです。

こういうところが責任を他者に求めると指摘されているところです。相手が速いのではなく自分がぼんやりしているのだ、という可能性をまず疑いましょう。武術における大体の問題は認識外の領域に認識を拡張することでしか解決しません。

S:先生といわず、人に「ちょっと押された時の受け身」と「すごい勢いで突き飛ばされた時の受け身」の違いは、こちらに感知する余裕があるかないかということですね? 反射でなく感知の問題だと。

ならば、受け身が取れないのは、鈍いというソフトの問題です。

師:時間は沢山あったのだから、どういうときに受け身が取れなかったか、本当に真剣に身を守ろう、直そうと思うなら回想したはずです。また、私は「単按の受け身が取れていない」と既にツイートしています。

片手で押すだけで人間一人が受け身も取れない速度と勢いで叩き付けられるか? 私はそんな怪力ではない。だったら論理的にこの帰結を辿るのは「弟子であり白桃会の考え方を身に着けていれば」出来て当然のことです。

それなのになぜ自分が身をもって学んだ体験と記憶からの学習ではなく首の筋力が大事、という私が一言も言っていないものの教えを安易によそから持ってきたのでしょうか。私はそこに無益なセカンドオピニオンの存在を感じます。

S:受け身を感知(ソフト)でなく反射(ハード+ソフト)の問題と捉えていたため、鍛えて首のぐらつきをなくすというアイデアに得心していました。仰る通り「強い」「勢いがある」を外的条件だと考えていたからです。

では、ぼんやりしなくなれば先生の受け身がとれるんですね。

師:私は同じ投げの低速から最高速までを段階的に体験させたはずです。その結果、「一応思ったよりも受け身は取れている」と判定しました。つまり約束稽古下では受け身は取れている。しかし自由組手では取れていない。この二つの事象から導かれるのは何ですか?

これは首の筋力があれば防げる、という種類の問題ですか?

また、単推手では単按で後頭部から叩き付けられるなんてことは起きてないのに、自由組手でそうなるのはなぜだと思いますか?

(Sのつぶやき:筋力よりかも、ぼんやりしないことなのか・・・・組手の真っ最中の、あんな、主観的には最高に集中している瞬間瞬間に、私はぼんやりしていたのか・・・。ダメだなあ・・・)

師:あなたは最高に「私を倒すことに」集中している。そのとき、あなたは自分が崩されているなんて微塵にも考えていない。

目的意識を持たないこと、もまた、今さら言うまでもない基本です。

S:そうか・・! 集中のしどころを間違えているんですね・・。わかったと思います。

(私はわかった。相手に、目的に集中するんじゃなくて、相手との間の「何か」に集中するということだね。その何かをなんと呼ぶのかわからないが)

(相手を倒すことに最高に集中していて、自分が崩されているなんて微塵も考えていない・・って、私の将棋スタイルそのままだ・・)

新年早々ありがとうございました。

このやりとりには武術的に重要な学びと、武術以前の学び方の問題の二つが含まれている。

前者の武術的に重要な学びとは「受け身とは何か?」。それは反射神経や筋力よりも感知によってなされるものだということ。感知する力は套路や推手によって高められるといい、先日の初稽古でも実際に受け方を教えていただいた。

自分は受け身というものを根本的に誤解していた。受け身は投げられた後にとるものでなく、投げられる前にとるものであった。私は受け身を「起きてしまったことの緩衝」だと思っていた。

失敗というのは後者の「学ぶ態度」であって、それは師の次のリプライに尽くされている。「なぜ自分が身をもって学んだ体験と記憶からの学習ではなく首の筋力が大事、という私が一言も言っていないものの教えを安易によそから持ってきたのでしょうか。私はそこに無益なセカンドオピニオンの存在を感じます。」

首を鍛えるとは、受け身をとるという課題について「自分で考えた」対処の一つだった。それは上記したように、受け身を「緩衝」と捉えていた誤解(思い込み)による。その誤った問題意識に基づいて自分の体験や記憶を振り返り、あるいはスポーツショップの店員やネットや本やテレビといった「外部」から情報を得たのが今回の過ちである。「私はあなたが自力で解けない課題は出さないし、参考にすべきものがあればこちらから言います」。

師から首を鍛えろとは一度も指示されていない。背信行為と言われる所以である。

武術をやっていて、常に問題意識をたずさえて生きていると、身の回りの事象がいちいち意味を持ったメッセージや情報として自分の目に耳に飛び込んでくる。これは何かに打ち込んでいる人ならば誰しも覚えのあることと思う。しかし問題の立て方がそもそも間違っているという現状では、どのメッセージが武術の求めにかない、どれがそうでないかを分別するのがとても難しい。誤りを正されたあとで振り返ってみるとバカだなあと思う。