弟子のSです

武術の稽古日誌

母の贈り物

太極拳をしていれば、呼吸がゆったりと整う套路の動きが癖になっている人も多いだろう。私も家でよくやるようで、娘がスマホで撮った日常風景の端っこに、私が写り込んで樓膝拗歩してたりする。

先日のことだが、茶の間の介護用ベッドに横になった母が、私の套路をまじまじと見て
「かっこいいねえ」と言った。
「これでも10年習ってるからね」と私。すると母が田舎言葉で
「そうだろうな。習ってなきゃそれだけの格好はできねえよ」。

気質や価値観の違いや、たぶん母娘の甘えからストレスの多い介護生活を送っているが、ごくたまに二人の波長が合った時、予期せず珠玉のような時間が訪れることがある。このときもそうだった。私は褒められて、たちまち小躍りする幼児の心にもどる。首にメダルをかけてもらったような気持ちがした。

丁寧に負ける

感染防止に配慮しながら週1回のペースで稽古を続けている。
先日は雨天だったので、体育館内の道場で久しぶりに投げ技ありの組手をした。私がうまく受け身を取れなくなっていることに、師が驚き嘆いておられた。自覚するのは、以前にも増してスタミナがなくなっていること。
その後寝技の自由攻防と続いたが、体がうまく動かない。師の強さに恐怖を感じると共に、師の強さへの甘えが自分にはあるのだろう、出鱈目で強引な動きになる。攻防はしばしば中断し、暴れず丁寧にやるように、技で返すようにと指導されて再開するものの、何も出て来ず、身体化された技など自分にはないのだと思い知らされる。「丁寧にやる=優しくやる=戦意を無くする」みたいな、絶対に間違っている変換が脳内でなされ、攻防の体をなさないまま終了時刻を迎えてしまった。

うまくできる時は、私が動いているというより「武術」が動いているような気がするものだが、ダメな時は武術でなく、ただの煩悩に冒された「私」が動いているだけで、浄化がなされず、スカッとしない。そんなのを相手にする方にも申し訳ない。

その後、師のツイッターに指針となるようなツイートを見つけた。ブログと違い、流れて消えてしまうのでここに拾っておく。

寝技の乱取りで弟子が思うように動けず気落ちしていたが、必ずしも100点の動きが出来なくても、気落ちしない方法はある。それは単純に丁寧にやること。
やられる、負ける流れだとしても丁寧に手順を踏み、詰みの形まで作ってから投了すること。やられるのが上手くなってどうする、極められるくらいなら無茶苦茶に暴れて力づくでも技を外せ、というのは格闘技や護身術ではあるかもしれないが、武術ではない。
武術の乱取りは体を使った思考実験なので勝敗自体には意味がない。
プロ棋士は負けを数十手先に読んでしまっても、形作りとしてわかりやすい投了図まで指す。それは見ているファンのためだ。これは死刑台の階段を登るようなものだろう。しかし、その「丁寧に負ける」作業がプロの矜恃でもある。
ネット将棋などでは負けると分かった瞬間、回線を切る人もいる。むしろ強さとは絶好調で無双しているときではなく、絶不調のときもブレない、荒れない、八つ当たりしないで、丁寧さを失わないことの中にあるようにも思う。

師は「コロナでのブランクのせい」と言ってくださったけれど、私はこれが自分の実力だと思う。
いずれにせよ考えるべき問題は変わらない。問題は「負ける自分をどうやって勝てる自分にするか」よりも「負ける自分のままどういう態度で目の前の戦いを戦うか」。で、その態度は既に指導されているように「丁寧に」。

同じ日の座学で、柔術には三種類あるということ、そのうちの「殿中柔術」と「合戦柔術」について詳しく教わった。
殿中柔術の目的は御殿内で主君を護るためのいわゆる捕物で、背後関係のある相手を生け捕りにすることを考える。いっぽう合戦柔術は、合戦場において甲冑で身を固めた相手を斃し、首を取ることを目的とする。つまり同じ柔術でありながら、目的について両者は対照的な性質を持つわけだが、相手を「生かそうとする」前者が、「殺そうとする」後者に武術として劣るわけではない、と師は仰った。殺意ある相手に対する防禦の技術においては、殿中柔術のほうがむしろ優れているかもしれない、とのことだった。
相手を制するのに、「死なせてはならない」という条件がある武術とない武術とでは、どちらが「丁寧さ」が求められるかといえば、それは前者だろう。丁寧さは態度でもあり、同時に技術でもある。

相手を凌駕する強さもいいけれど、負け戦を丁寧に戦える強さのほうに惹かれる。自分がなるならそっちの方がずっとカッコいいと思う(というか、現実的に私が目指せるのは後者一択だろう)。なのに、ともすれば丁寧の真逆に陥る自分をどうすればいいのか…。冴えない稽古は考える機会を与えてくれる。

稽古メモ〜重心を外に出す〜

小金井の太極拳教室は5月22日から屋外(小金井公園)で稽古が再開されている。元の講習場所である市民体育館もビジター利用は再開されたため、晴雨にかかわらず稽古ができるようになった。再度、再々度の感染拡大が起きないことを祈るばかりだ。

稽古日誌も気まぐれな更新になっているが、師から教わることはあいかわらず面白く、考えるヒントに溢れている。直近の稽古では「重心を体の外に出す」というのをやった。

太極拳套路では、起勢によって作り出した「重み(の球)」を移動させることで動作の流れができていく。重みを片寄せることで、体には重く沈む部分(実)と軽く浮く部分(虚)ができる。虚実のめりはりをつけることは、太極拳の動きの特徴のひとつ(「虚実分明」)だ。自分というものが動いているのか動かされているのか判然としなくなる、套路ならではの心地良さも、この虚実の移ろいから生まれてくるようだ。

その「重み」だが、いままでは確か、片寄せてはいても「体の内側」に置いておくのが基本だったと思う。だから体の中では「虚実分明」していても、個体全体としては重心が内部にあり安定していた。
それが今回その重みを、片寄せるだけでは足りず「体の外側」に出すという。自身から離れたところ、たとえば伸ばした手の先に重みの球を置いて、その重さを動きの原動力にする。重心を外す、つまりわざわざ崩れていくのだから「不動の個体」としては不安定にはなるものの、そうすることで、自身の体を重心の拠りどころにしていては生まれない動き、「うねり」が出るようになる。

あとで自分で動いてみて感じたのだが、動きの「拠りどころ」を自身から遠い位置に想定すればするほど、(拠りどころは「点」なので)おのずと動きは大きな弧を描くことになる。スパイダーマンが思いきり遠くに放った糸に身をまかせるような感じで、単体としては不安定なのに、のびのびする。自分を投げ出すほど、「うねり」にのまれて安定する。

重心を本体から外す系の動きというと酔拳八卦掌が思い浮かぶが、考えてみれば、こうした武術も自ら不安定になることで動きを作っていて、その動きを止めないこと、不安定であり続けることで安定している。

「安定」は重心が自分の内にあってこそ、というのは思い込みに過ぎないのだろう。自分が持つのはどうせ小さな体ひとつ、重心を体という枠から放してやって、自分の周囲360度、全方位的に重み付けして、流れの中で安定するという安定の仕方があるというのは、他力本願の真骨頂というか、ある意味たいへん心丈夫な感じがする。