弟子のSです

武術の稽古日誌

武術ゆく年くる年 8年後のひざ

訪れる人もまれなこのブログのアクセス数が唯一(比較的)伸びた時期、それは私がひざの靭帯を傷めた時のこと。2012年11月の稽古中に受傷し、その後MRIで前十字靭帯断裂と診断され、筋力をつけるためのリハビリと並行して、再建手術を受けるかどうかで迷いに迷っていた頃のもの。検索でヒットしたと似た状況の方からコメントを頂いたり、悩んでいる人の多さを窺い知ることができた。
その後紹介で一人のスポーツドクターに辿り着き、手術はしないと決め、リハビリも卒業した2014年の3月に一通りの記事が終わっている。

メスを入れなかったひざは以来6年間、好不調の波はありつつもおおむね安定していた。(とはいえ、2019年には不調から2度目のMRIを撮っている。また同じ年に私の師も組手中にひざを負傷し、師弟で靭帯に不具合を抱えることと相成った。)

なんとかやり過ごしてはきたものの、近年は骨の状態も「経年劣化」が進んでいて、レントゲンを撮れば軟骨のすり減りを指摘される。骨の変形は目視でわかる。外反母趾もいよいよ痛みが出てきた。私は酷い扁平足で脚が内側に深く沈み込むため、骨の配置が、ひざに負担のかかる「ニーイン・トウアウト」という状態になりやすい。外反母趾が進むのもそのせいかと思う。

そうしたところ、先日の稽古中、ふとした拍子に患側のひざの中心に痛みが走り、またもや「嫌な感じ」になった。これを機にニーイン矯正に本腰を入れようと、三鷹市で開業されているスポーツドクターI先生のアドバイスを数年ぶりに乞うことにした。
クリニックには2013年と2019年にそれぞれ撮ったMRI画像を持参する。2013年にMRI画像を見て「手術の必要なし」と即断されたのがI先生である。後から知ったのだが、JOCオリンピック強化スタッフ、全日本男子バレー海外遠征帯同など、錚々たるキャリアの持ち主だ。

6年後の2019年のMRI画像がモニターに映し出されると、I先生は「え!ずいぶん悪くなったね」と仰った。前十字靭帯でなく半月板が看過できない状態らしい。水平断裂という状況だそうだ。そして「自分のひざだったら今すぐ手術する」と仰る。6年前に「自分のひざなら手術しない」と仰った先生が…。意外な展開に唖然とする。
その2019年のMRI画像は、撮った際に近所の整形外科医に読影してもらい、その時既に「内側半月板水平断裂」と診断されていた。ディスクにメモ書きが記されていた。診断して放置した町医者と、手術を勧めるスポーツドクター。これは医療者としての性質の違いだろうか。

それにしても、前十字靭帯受傷当時のMRIでは問題となる所見のなかった半月板が、6年後には断裂してるってどういう事だろう。I先生は因果関係については触れなかったけれど、素人考えでは、やはり靭帯のサポートが弱いぶん負担がかかっていたのかと思う。6年前に再建手術を受けていたら違っていたんだろうか。今回も手術しなかったら将来に影響するんだろうか。

質問が整理できないまま、カルテ作成中の先生に答える。

I先生「太極拳やってるの?体操みたいなあれか」
S「はい。健康体操もそうですが、対人型の武術としての太極拳を練習してます」
I先生(対人型の武術と聞いて)「ええ…!どうして?」
S「おもしろいからです」
I先生「ああ……」

なぜ武術やるのの問いに間髪入れず答えた自分が新鮮だった。おもしろいからです。聞いた先生が「やめたら?」と言わず、その答えを尊重してくださったのが嬉しかった。説明すると長くなるけれど、とにかく私がやっているのは、教える師匠もひざを傷めている、そうした種類の武術なのだ。手負いであることが稽古の妨げにならず、むしろ研究(功夫)を促したりする。
「対人型の武術」というとまず格闘技という印象を与えてしまう(またそうした要素も確かにある)から、それでドクターストップをかけられる、というのがよくある流れ。

S「あの、ニーインはどうすれば直りますか」
I先生「女性のニーインは特に珍しくないからね…。それより、とにかくしゃがまない事!半月板を悪くするのは、しゃがむ仕事の人に多いんだよ」

ニーインは、直せればそれに越したことはない、くらいの温度。トレーニングで直るまで悠長に待っていられないような所見なのだろうか。
手術は10日間程度の入院とその後のリハビリが必要だそうだが、母の介護中のためすぐには無理だ。私の準備が整いしだい、ということにして、とりあえず年末年始の筋トレメニュー(丸めて棒状にしたバスタオルをひざで潰す)を理学療法士さんに教わって帰る。療法士さんは私の生活状況を細かく聞き取ってくれ、母のおむつ交換をしゃがまずにできるようなアイデアを考えてくれた。

手術を勧められるなんて、冗談じゃなかろうか…と思う反面、今年一年、頭の大半を常に母が占めていたので、自分にスポットライトが当たる(?)のが新鮮でもある。

・・・・・・・・・・・・・・・

母の入院から介護、新型コロナウイルスの蔓延、稽古場が閉鎖になり代替施設を求めて彷徨う(*)など、公私において難儀な2020年でしたが、本年最後の記事は超個人的な「私のひざ」について書きました。前十字靭帯断裂で再建手術を選択しなかったケースの、その後の経過の一例としてどなたかの参考になれば幸いです。私の2021年は変化の年になりそうですが、世界にとっても災いが福に転じ、よい変化の年になるよう願ってやみません。佐山先生、稽古仲間の皆様、奇特な読者の方々、今年一年ありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。

*予約時の団体登録の必要から団体を立ち上げ、代表者登録の必要から私が代表を務めることになりました。「小金井三十七式太極拳クラブ」といいます。告知・連絡用にTwitterアカウントも作りました。以後よろしくお願いします。
http://hakutoukai.web.fc2.com/koganei.html
小金井三十七式太極拳クラブ (@koganei37) | Twitter

母の贈り物

太極拳をしていれば、呼吸がゆったりと整う套路の動きが癖になっている人も多いだろう。私も家でよくやるようで、娘がスマホで撮った日常風景の端っこに、私が写り込んで樓膝拗歩してたりする。

先日のことだが、茶の間の介護用ベッドに横になった母が、私の套路をまじまじと見て
「かっこいいねえ」と言った。
「これでも10年習ってるからね」と私。すると母が田舎言葉で
「そうだろうな。習ってなきゃそれだけの格好はできねえよ」。

気質や価値観の違いや、たぶん母娘の甘えからストレスの多い介護生活を送っているが、ごくたまに二人の波長が合った時、予期せず珠玉のような時間が訪れることがある。このときもそうだった。私は褒められて、たちまち小躍りする幼児の心にもどる。首にメダルをかけてもらったような気持ちがした。

丁寧に負ける

感染防止に配慮しながら週1回のペースで稽古を続けている。
先日は雨天だったので、体育館内の道場で久しぶりに投げ技ありの組手をした。私がうまく受け身を取れなくなっていることに、師が驚き嘆いておられた。自覚するのは、以前にも増してスタミナがなくなっていること。
その後寝技の自由攻防と続いたが、体がうまく動かない。師の強さに恐怖を感じると共に、師の強さへの甘えが自分にはあるのだろう、出鱈目で強引な動きになる。攻防はしばしば中断し、暴れず丁寧にやるように、技で返すようにと指導されて再開するものの、何も出て来ず、身体化された技など自分にはないのだと思い知らされる。「丁寧にやる=優しくやる=戦意を無くする」みたいな、絶対に間違っている変換が脳内でなされ、攻防の体をなさないまま終了時刻を迎えてしまった。

うまくできる時は、私が動いているというより「武術」が動いているような気がするものだが、ダメな時は武術でなく、ただの煩悩に冒された「私」が動いているだけで、浄化がなされず、スカッとしない。そんなのを相手にする方にも申し訳ない。

その後、師のツイッターに指針となるようなツイートを見つけた。ブログと違い、流れて消えてしまうのでここに拾っておく。

寝技の乱取りで弟子が思うように動けず気落ちしていたが、必ずしも100点の動きが出来なくても、気落ちしない方法はある。それは単純に丁寧にやること。
やられる、負ける流れだとしても丁寧に手順を踏み、詰みの形まで作ってから投了すること。やられるのが上手くなってどうする、極められるくらいなら無茶苦茶に暴れて力づくでも技を外せ、というのは格闘技や護身術ではあるかもしれないが、武術ではない。
武術の乱取りは体を使った思考実験なので勝敗自体には意味がない。
プロ棋士は負けを数十手先に読んでしまっても、形作りとしてわかりやすい投了図まで指す。それは見ているファンのためだ。これは死刑台の階段を登るようなものだろう。しかし、その「丁寧に負ける」作業がプロの矜恃でもある。
ネット将棋などでは負けると分かった瞬間、回線を切る人もいる。むしろ強さとは絶好調で無双しているときではなく、絶不調のときもブレない、荒れない、八つ当たりしないで、丁寧さを失わないことの中にあるようにも思う。

師は「コロナでのブランクのせい」と言ってくださったけれど、私はこれが自分の実力だと思う。
いずれにせよ考えるべき問題は変わらない。問題は「負ける自分をどうやって勝てる自分にするか」よりも「負ける自分のままどういう態度で目の前の戦いを戦うか」。で、その態度は既に指導されているように「丁寧に」。

同じ日の座学で、柔術には三種類あるということ、そのうちの「殿中柔術」と「合戦柔術」について詳しく教わった。
殿中柔術の目的は御殿内で主君を護るためのいわゆる捕物で、背後関係のある相手を生け捕りにすることを考える。いっぽう合戦柔術は、合戦場において甲冑で身を固めた相手を斃し、首を取ることを目的とする。つまり同じ柔術でありながら、目的について両者は対照的な性質を持つわけだが、相手を「生かそうとする」前者が、「殺そうとする」後者に武術として劣るわけではない、と師は仰った。殺意ある相手に対する防禦の技術においては、殿中柔術のほうがむしろ優れているかもしれない、とのことだった。
相手を制するのに、「死なせてはならない」という条件がある武術とない武術とでは、どちらが「丁寧さ」が求められるかといえば、それは前者だろう。丁寧さは態度でもあり、同時に技術でもある。

相手を凌駕する強さもいいけれど、負け戦を丁寧に戦える強さのほうに惹かれる。自分がなるならそっちの方がずっとカッコいいと思う(というか、現実的に私が目指せるのは後者一択だろう)。なのに、ともすれば丁寧の真逆に陥る自分をどうすればいいのか…。冴えない稽古は考える機会を与えてくれる。