弟子のSです

武術の稽古日誌

鶏むね肉問題

課題「鶏むね肉レシピをYoutubeで観て、何が問題とされ、その問題解決にどんな考え方があるのかを武術の流派性と関連づけて論じよ」

長く主婦をやっているが、やりくり上手はむね肉を買うと頭では知りつつ、鶏肉といえばもも肉や手羽ばかり求めてきた。もも肉や手羽にあってむね肉にないもの、それは何と言っても「脂身のもたらす旨味」であろう。そもそも日本では脂身の多いもも肉が人々に好まれる傾向にあり、それゆえにむね肉は栄養価が高いにも関わらず安価なのである。

ジューシーな鶏もも肉と対比して考えた時、鶏むね肉の具体的な特徴は「淡白な味わい」「バサついた食感」という2点に集約されると思われる。このたび上記の課題をいただいて、料理系の人気YouTuberのチャンネルから再生回数上位の鶏むね肉レシピを選んで見ていったが、大抵の動画でその2点の特徴に言及しており、どんな一皿になるにせよ、仕上がりが「しっとり!」「鶏むね肉とは思えないほどジューシー!」であることに例外はないようだった。「パサパサだけどそこがいい!」「味がないところが美味しい!」みたいなところに決着する動画は見当たらなかった。食材の特徴は基本的にネガティブなものとして捉えられており、各動画の見どころは「淡白でパサパサしがちな食材であるところの鶏むね肉」をどうやって美味しく化けさせるか、にあるのだった。

◆レシピによる解決

武術するにも料理するにも、まず大切なのは「志を立てること」であろう。それをしたいと志すのは、どんな自分だろうか。「鶏むね肉 レシピ」でYouTubeを検索すると、まさに群雄割拠といった感じでずらりと動画が並ぶが、「淡白でパサパサしがちな食材であるところの鶏むね肉」をあえて食材として選ぶのは、主に「安いから」「ヘルシーだから」という動機を持つ人だろう。「志」から分類したとき、鶏むね肉のレシピは次の二種類に大別される。

A「安い食材をとにかく美味しく食べようとする人向けのレシピ」
B「低脂質・低カロリーなまま美味しく食べようとする人向けのレシピ」

具体的には、前者が「揚げる」「揚げ焼きにする」「油を敷いて焼く」とカロリー度外視なレシピになっていくのに対し、後者では「蒸す」「茹でる」「網焼き」など、基本的に油脂を加えない調理法となっていく。

A「鶏むね肉は脂身が少ない」→「旨味の乏しさから安価である」→「安い食材を美味しく食べるにはどうしたらいいだろう」→(例)油脂を足すレシピ、濃いめのソースをかけるレシピ
B「鶏むね肉は脂身が少ない」→「低脂質・低カロリーである」→「低脂質・低カロリーなまま美味しく食べるにはどうしたらいいだろう」→(例)サラダチキン的なレシピ

どちらも食材の「脂身が少ない」という同じ特徴を起点に発想が展開していることに留意されたい。異なる着眼点により問題解決のための発想が枝分かれしていくのは、武術の派生の仕方と相通じるものがあるように思う。

以下、観た動画の中からピックアップしてチャンネル登録者数順に並べてみる(登録者数・再生回数ともに2022年6月2日現在)。
調理法を見てわかるように、Aに分類されるレシピが再生回数的には圧倒的に人気だが、言うまでもなく人気は人気であって、レシピに本質的な正解不正解はない。B志向の人にとってはAのレシピがアウトな場合もあろうし、A志向の人にとってBのレシピは不要な縛りが多いものに映るだろう。(このあたり、「レシピ」を「流派」と読み替えることもできそうだ。)
感想も少し書いたので、観ようという方は参考にしてください。

料理研究家リュウジのバズレシピ(チャンネル登録者数:301万人)
100g68円の鶏むね肉を信じられないほど柔らかく美味しく食べるただ一つの方法【至高のとり天】
https://www.youtube.com/watch?v=holOKD9U0yw
調理法:揚げ 再生回数:235万回
*料理系YouTuberのアイコン的な存在?「至高」「無限」がキャッチーだが、Sはむしろ「虚無」と銘打ったズボラ飯シリーズに啓蒙された。

Koh Kentetsu Kitchen【料理研究家コウケンテツ公式チャンネル】(チャンネル登録者数:141万人)
【300万回再生人気レシピ】フライパンひとつ!コウケンテツ流!とろ〜り甘酢&タルタルで食べる鶏むね肉チキン南蛮の作り方
https://www.youtube.com/watch?v=gx2kJ5M3gJk
調理法:揚げ焼き 再生回数:341万回
*旨味の少ない部位といえども、鶏肉ならではの底力があることを思い知らされた。圧倒的な再生回数を誇るだけあってすごく美味しそう。

kattyanneru/かっちゃんねる(チャンネル登録者数:87.5万人)
【鶏むね肉で節約おつまみ】作り置きもできちゃう!大葉じゃがゴロチキンの作り方
https://www.youtube.com/watch?v=6VOhgdSC97A
調理法:焼き 再生回数:116万回
*鶏肉と野菜を細かく切り混ぜるユニークなレシピ。「お母さんのあれが食べたい」ってなるやつ。

馬場ごはん〈ロバート〉Baba's Kitchen(チャンネル登録者数:76.3万人)
驚くほど柔らかい鶏マヨの作り方♪ 財布にもカラダにも優しいレシピ
https://www.youtube.com/watch?v=GGRMfJ0mdcg
調理法:焼き 再生回数:61万回
*芸人さんなので、鶏むね肉とは下積み時代からの長い付き合いらしい。電動ミルやコンロなどのツールがおしゃれ。

だれウマ【料理研究家(チャンネル登録者数:68.5万人)
[鶏胸肉なん?ってくらいジューシー!]衣がザックザクの悪魔の唐揚げの作り方
https://www.youtube.com/watch?v=DBB3JnPBXDs
調理法:揚げ 再生回数:121万回
*筋トレ大好きで、語尾に「〜マッチョ」が付いて、料理研究家の中で一番鶏むね肉を食べてる自信があるという。

飲食店独立学校 /こうせい校長(チャンネル登録者数 56.5万人)
【板前の技術】プロの技で鶏胸肉のパサパサとはおさらば!!
https://www.youtube.com/watch?v=JkvYYD2ZKik
調理法:低温調理 再生回数:77万回
*ものすごく説明の尺が長く、話が終わるまで混ぜる絵面が続いたりする。レシピというより化学の授業だけど説得力抜群。

まかないチャレンジ!(チャンネル登録者数:43万人)
これはビールしかないでしょう!『鶏むね肉のさっぱり梅しそ揚げ』の作り方。
https://www.youtube.com/watch?v=WEFPs-uWW9E
調理法:揚げ焼き 再生回数:14万回
*大将のキャラに慣れるとやみつきになる。Sの実家は材木屋でよく職人さんが出入りしていたのですが、昭和の時代にはこういう感じの職人さんが多くいました。


◆人による解決

大量のレシピ動画に触れるうち、レシピよりもYouTuberの個性を求めて動画を観るようになる。「レシピ」を「流派」と読み替える、と先に書いたが、そういう意味では、むしろ「人」こそが「流派」なのかもしれない。個々のレシピは流派性の「表れ」であっても、流派性そのものではないのかもしれない。「レシピは二の次」という意味では決してないが、「同じレシピでもこの人が作るとこの人らしくなる」みたいなことはあるのではないか。
武術に置き換えるならば、「別流派の技でも佐山先生がすると佐山風味になる」ということ。「僕の前に道はない/僕の後ろに道はできる」という詩があるが、鄭曼青が何かをすれば、それが鄭子太極拳になるのだろう。鄭子太極拳の流派性は「鄭曼青その人」に帰するということだ。

・・ということで、「淡白でパサパサしがちな食材であるところの鶏むね肉」を美味しい一皿に仕上げるのは「志に応じたレシピ」であり「人」である、という結論に辿り着きつつあるが、まだ書き残した重要なことがある。

◆シチュエーションによる解決

たぶん料理系YouTuberには分類されないのでリストには挙げなかったが、今回見た中で、次の動画がとても印象に残った。

オモコロチャンネル
「ヤスミノの鳥むね」って何?
https://www.youtube.com/watch?v=-AVV56ljIq8&t=32s
調理法:焼き 再生回数:27万回

タイトルに「鳥むね」とあるものの、18分の動画の大半を「オモコロチャンネル」メンバーのおしゃべりが占める。途中の数分で、ライターの「ヤスミノ」が気の無い様子でものすごくありふれた感じのむね肉料理を作るのだが、それをまた皆でああだこうだ言いながら食べるのが見ていて楽しい。意外なつけダレにより「絶品!!」となるのだけれど、本当に美味しいんだろうなあというのが伝わってくる。料理は「誰と食べるか」や「どんな雰囲気で食べるか」のシチュエーションも大事だと教えられる動画である。

◆地域性・国民性による解決というか解消

冒頭で「日本では脂身の多いもも肉が好まれる」と書いたが、欧米では少し事情が異なり、鶏むね肉は優秀なダイエット食材としてむしろ他の部位より高価なのだそうだ。これが本当なら、「レシピによる解決」の項で論じた「(旨味は乏しいが)安いから」という動機で鶏むね肉を買う人が欧米にはいないことになる(!)。高価な鶏むね肉をあえて選ぶ人は、その脂身少なく淡白な食味を「期待して」買うのであり、そこでは当然ながら脂身由来の旨味の乏しさは問題視されないだろう。
海外の鶏むね料理のレシピ動画も今回いくつか見てみたが、やはり全体に、しっとりさせようという努力というか工夫がさほど積極的になされていない。日本の、親の仇に対するが如き「パサパサ許すまじ!!」の姿勢とは大違いである。鶏むね肉ならではの淡白な味わいを楽しむ一皿、といった感じのレシピが多い印象を受けた。
ある場所において問題とされることが、別の場所では問題視されないこと。ある人に求められる技(レシピ)が、別の人には必ずしも求められないこと。このことは流派の興盛に地域性や国民性が大きくかかわる可能性を示すが、これはもはや文化論となり、話が拡がりすぎるので本稿では触れずにおく。

◆むすび

料理系YouTubeというジャンルの存在すら知らなかった私だが、今回の課題を通して、鶏むね肉がポテンシャルのある食材であることがよくわかった。諸物価が値上がりする今こそ、お財布に優しい鶏むね肉の出番だろう。おりしも今日は生協のオンライン注文日。改めてカタログを見てみれば、むね肉は確かにとても安い。訴求力のない地味な見た目に普段なら通り過ぎるところだが、今日は踏みとどまってポチッとした。個性豊かなYouTuber諸氏のおかげで、美味しく食べる方法はいまや各種知っている。届いたら「観音開き」をやってみるつもりだ。つくるぜ!

即興で踊れる人、踊れない人

「踊れる人と踊れない人の違いは何か(特に即興において)」。

師から出されたこの問いについて、今日は考えてみる。この問いにおける私の立ち位置とは、言うまでもなく「即興で踊れない人」である。本稿は踊れない私が踊れるようになるための考察である。

即興で踊れないという私だが、たとえば思いがけぬ良いことがあった時など、そこが家ならば、ステップを踏んで小躍りしたりする。それは、おそらく人が見れば「ああ、この人は嬉しいんだな」と一目でわかる動きである。つまり私はポテンシャルとして「踊れない人」ではない。にもかかわらず人前では踊らない、踊れないのはなぜだろうか。

白桃会の「演武」も基本的に即興で行うが、稽古で求められることは、常に人の視線を意識して動くことだ。対手との武術のやりとりが第三者にどういう風に見えるか、という視点から動きの方向性が生まれる。人に何かが伝わること、人の心を動かすことを意図して動きを見せる以上、見る人に「受け入れやすい」ものでなければいけない。家での小躍りを私が外でしないのは、それが人に受け入れられるとは思わないからだ。(人の心を動かすとも思えない。)

冒頭の課題を出されたときに、考察の手がかりとして、即興で自由に踊ることを何が阻んでいると思うか師に訊かれた。
私が考えたのは「自分の中の真面目さ、正解を求める気持ち」と「恥ずかしさ」。それぞれについて考えてみる。

1 自分の中の真面目さ、正解を求める気持ち

たとえば最近の兎刀を使った稽古で自由演技をする。師によると、私の動きは使い方を学んだ後よりも、学ぶ前の何も知らない時の方がよかったそうだ。また師ご自身のことでも、猴拳のアイデアを得てそれを一連の型にまとめられたが、型ができてみると、そのことによって、同じ猴拳でも「あまりしなくなった動き」と「多くするようになった動き」ができてきたと仰っていた。

これは考えてみれば不思議というか示唆的なことだ。「公式」を知った後では「公式」に動きが制限されうるというのは、ある指標があると、人は自然とそれに寄せるようになるということだろうか。しかし本来、公式や型は「抽出されたもの」であっても「淘汰されたもの」ではないはずで、それが自由な動きを制限するのはおかしい。

したがって、自由な動きを阻むのは公式や型ではなく、「ある指標に寄せようとする気持ち」だろう。「こうでなければ」という気持ち。自由な動きとは、でたらめな動きとは一線を画すものだが、「こうでなければ」と考えた途端、自由は(私にそのつもりがあろうとなかろうと)ワルモノにされてしまう。自由な動きの可能性が広がっているかもしれないのに、真逆のベクトルの、寄せようという一点に心が集約してしまう。とんちんかんな真面目は、厄介なしろものだ。

2 恥ずかしさ

これは私個人の問題なのだが、「素の自分は恥ずかしい存在」という強固な思いがある。これは落ち着いて考えると「思い込み」であろうかと思う。良いことがあって小躍りしているとき、私は「素の自分」全開だが、踊る姿はともかく存在が恥ずかしいとまでは思わない。また演武する際には心のスイッチを切り替えて演武モードになろうとするが、これは我執を離れ、大いなる「素の自分」に身を委ねるためだ。

「真に恥ずべきものをそうとわかる」センサーとしての羞恥心は大切にしなければならないが、「素の自分」は恥ずかしいどころか、むしろ信頼に足るものだ。恥ずかしいのは「恥ずかしがること自体」にあると思う。

たとえば役者が演技するのでも、恥ずかしがっているうちは「演技み」が抜けなくて、却って見ていて恥ずかしい。真っ当な役者は、恥ずかしいとか恥ずかしくないとかのレベルの問題はとっくに超克しているはずだ。役者が拘泥すべき事柄は(当然ながら)そこじゃないからだ。だから素顔はものすごくシャイ、という役者さんが存在するのだろう。

素の自分が恥ずかしくていたたまれない私も、稽古を重ねるなかで少しずつ乗り越えてきたものはある(鏡に映った自分を正視する、動画に撮られることを拒まない、など)が、べっとりと染み付いた「自分を恥じる性根」から自由になることはなかなか難しい。小物である。だからこそ稽古を重ねるのだが。。

ーー以上、即興で踊ることを阻むもの、つまり私を踊れない人にさせているものについて考えてみた。

映画『たそがれ清兵衛』での美しすぎる殺陣で名を馳せた舞踏家の田中泯が、近年のドキュメンタリーで、蜘蛛からインスピレーションを得て踊るシーンがある。即興の踊りの始まるその前に、廃墟に糸を張った大蜘蛛を彼は執拗に眺めている。蜘蛛の何を眺めているかというと「心意気」だという。「形態」を模倣するのではない、「心意気」を模倣するのだと。(そういえば、飛ぶ公式を失ってしまった魔女のキキも、最後は心意気で飛んだっけ。。)

心意気は、根性では決してない。根性で何かを得ようとするという姿勢がすでに「心意気」にそぐわない。直近の稽古で、対面する相手を突き抜けた奥に意識を置く、というのがあったが、それと似たようなものかもしれない。対象を突き抜けた先の、遠くのものに手を差し出すような心のありようというか。そのありようにつれて視線も上がってくる。

踊りは演武と同じく、美しいものを(神にであれ、人にであれ)何かに差し出すことだろう。差し出すことで自分の存在がどんどん小さくなっていき、小さくなるほどに、なんだか大きくなれる。いい演武ではそうした感覚が得られる。というより、その感覚が得られた時にしかいい演武にならない。インタビューで、田中泯は「踊りは私なんかよりはるかに大事なもの」と幸せそうに言っていたが、即興で踊れる人と踊れない人の違いは、そのへんの認識の差にあるのではないかと思う。

ビバ、ぷよ碁

師匠に教わった無料ブラウザゲーム「ぷよ碁」で遊ぶのが習慣になった。本来の19路盤とちがって5路盤と7路盤しかないので、鍋でお湯を沸かしている間に一局打てるのがいい。

ぷよ碁のすばらしい特徴、それは

碁石に表情がある!
盤面で戦いが起きると、優勢なほうの石が強気の顔になり、ピンチになった石は青ざめる。

石のつながりがビジュアルでわかる!
隣り合わせてつながった石はカタマリとして示される。隣り合わせていない状態では、伸びるチーズみたいな感じで石同士のつながりが示され、つながりの強弱により太さが変わる。

本当に自慢ではないのだが、私には、市井の囲碁教室に3年通ってついに石の強弱と石のつながりを理解しなかったという過去があるのだ。人々が「この石が危ない」「つながった」「ああ切られた」などと知的に笑い合うなか、私にはそれらの感覚がどうしてもわからなかった。
組手や推手もそうだが、優勢・劣勢の感覚なしに打つ手は「あてずっぽう」にならざるを得ない。勝負事の前提ともいえる「強弱や生き死にの感覚」がわからない以上、いくらやっても上達する気がせず、コロナ禍をしおに通うのをやめてしまった。3年やって得たのは、いくつかの「囲碁格言」と、「私ってバカだったんだ」という負の確信だけであった。

ところがぷよ碁を始めてみると、どうだろう、表情豊かな石のおかげで、形勢の優劣の感じが少しずつわかってきた。続けるうちに「表情の予測」ができるようにもなった。こう打つとここがつながるな、ここを補強しとかないと危ないな、というのはつまり「感覚が身についた」ということで、そうなると、脳の中で埃をかぶっていた「囲碁格言」も活きてくる。今では5路盤・7路盤とも対AI戦でほぼ負けなしになった。(AIが強すぎないのも、ユーザーフレンドリーというか、ぷよ碁の良さだと思う。)勝つことももちろん楽しいけど、「つながるってこういう事だったのね…」と、諦めていたことが理解できたのが何よりうれしい。ありがとうございます、ぷよ碁と先生。

「人間には無限の可能性がなくもない」というのは師匠の言葉だが、こういう経験をすると、現時点で苦手意識や不可能感のあることも、やりようでは上達・達成し得るのだと思えるようになる。やりよう、とは「工夫」のことで、「頑張り」ではない。ぷよ碁で私はまったく頑張っていない。ただ遊んでいるだけだ。開発チームの人は、本当に偉いと思う。