弟子のSです

武術の稽古日誌

即興で踊れる人、踊れない人

「踊れる人と踊れない人の違いは何か(特に即興において)」。

師から出されたこの問いについて、今日は考えてみる。この問いにおける私の立ち位置とは、言うまでもなく「即興で踊れない人」である。本稿は踊れない私が踊れるようになるための考察である。

即興で踊れないという私だが、たとえば思いがけぬ良いことがあった時など、そこが家ならば、ステップを踏んで小躍りしたりする。それは、おそらく人が見れば「ああ、この人は嬉しいんだな」と一目でわかる動きである。つまり私はポテンシャルとして「踊れない人」ではない。にもかかわらず人前では踊らない、踊れないのはなぜだろうか。

白桃会の「演武」も基本的に即興で行うが、稽古で求められることは、常に人の視線を意識して動くことだ。対手との武術のやりとりが第三者にどういう風に見えるか、という視点から動きの方向性が生まれる。人に何かが伝わること、人の心を動かすことを意図して動きを見せる以上、見る人に「受け入れやすい」ものでなければいけない。家での小躍りを私が外でしないのは、それが人に受け入れられるとは思わないからだ。(人の心を動かすとも思えない。)

冒頭の課題を出されたときに、考察の手がかりとして、即興で自由に踊ることを何が阻んでいると思うか師に訊かれた。
私が考えたのは「自分の中の真面目さ、正解を求める気持ち」と「恥ずかしさ」。それぞれについて考えてみる。

1 自分の中の真面目さ、正解を求める気持ち

たとえば最近の兎刀を使った稽古で自由演技をする。師によると、私の動きは使い方を学んだ後よりも、学ぶ前の何も知らない時の方がよかったそうだ。また師ご自身のことでも、猴拳のアイデアを得てそれを一連の型にまとめられたが、型ができてみると、そのことによって、同じ猴拳でも「あまりしなくなった動き」と「多くするようになった動き」ができてきたと仰っていた。

これは考えてみれば不思議というか示唆的なことだ。「公式」を知った後では「公式」に動きが制限されうるというのは、ある指標があると、人は自然とそれに寄せるようになるということだろうか。しかし本来、公式や型は「抽出されたもの」であっても「淘汰されたもの」ではないはずで、それが自由な動きを制限するのはおかしい。

したがって、自由な動きを阻むのは公式や型ではなく、「ある指標に寄せようとする気持ち」だろう。「こうでなければ」という気持ち。自由な動きとは、でたらめな動きとは一線を画すものだが、「こうでなければ」と考えた途端、自由は(私にそのつもりがあろうとなかろうと)ワルモノにされてしまう。自由な動きの可能性が広がっているかもしれないのに、真逆のベクトルの、寄せようという一点に心が集約してしまう。とんちんかんな真面目は、厄介なしろものだ。

2 恥ずかしさ

これは私個人の問題なのだが、「素の自分は恥ずかしい存在」という強固な思いがある。これは落ち着いて考えると「思い込み」であろうかと思う。良いことがあって小躍りしているとき、私は「素の自分」全開だが、踊る姿はともかく存在が恥ずかしいとまでは思わない。また演武する際には心のスイッチを切り替えて演武モードになろうとするが、これは我執を離れ、大いなる「素の自分」に身を委ねるためだ。

「真に恥ずべきものをそうとわかる」センサーとしての羞恥心は大切にしなければならないが、「素の自分」は恥ずかしいどころか、むしろ信頼に足るものだ。恥ずかしいのは「恥ずかしがること自体」にあると思う。

たとえば役者が演技するのでも、恥ずかしがっているうちは「演技み」が抜けなくて、却って見ていて恥ずかしい。真っ当な役者は、恥ずかしいとか恥ずかしくないとかのレベルの問題はとっくに超克しているはずだ。役者が拘泥すべき事柄は(当然ながら)そこじゃないからだ。だから素顔はものすごくシャイ、という役者さんが存在するのだろう。

素の自分が恥ずかしくていたたまれない私も、稽古を重ねるなかで少しずつ乗り越えてきたものはある(鏡に映った自分を正視する、動画に撮られることを拒まない、など)が、べっとりと染み付いた「自分を恥じる性根」から自由になることはなかなか難しい。小物である。だからこそ稽古を重ねるのだが。。

ーー以上、即興で踊ることを阻むもの、つまり私を踊れない人にさせているものについて考えてみた。

映画『たそがれ清兵衛』での美しすぎる殺陣で名を馳せた舞踏家の田中泯が、近年のドキュメンタリーで、蜘蛛からインスピレーションを得て踊るシーンがある。即興の踊りの始まるその前に、廃墟に糸を張った大蜘蛛を彼は執拗に眺めている。蜘蛛の何を眺めているかというと「心意気」だという。「形態」を模倣するのではない、「心意気」を模倣するのだと。(そういえば、飛ぶ公式を失ってしまった魔女のキキも、最後は心意気で飛んだっけ。。)

心意気は、根性では決してない。根性で何かを得ようとするという姿勢がすでに「心意気」にそぐわない。直近の稽古で、対面する相手を突き抜けた奥に意識を置く、というのがあったが、それと似たようなものかもしれない。対象を突き抜けた先の、遠くのものに手を差し出すような心のありようというか。そのありようにつれて視線も上がってくる。

踊りは演武と同じく、美しいものを(神にであれ、人にであれ)何かに差し出すことだろう。差し出すことで自分の存在がどんどん小さくなっていき、小さくなるほどに、なんだか大きくなれる。いい演武ではそうした感覚が得られる。というより、その感覚が得られた時にしかいい演武にならない。インタビューで、田中泯は「踊りは私なんかよりはるかに大事なもの」と幸せそうに言っていたが、即興で踊れる人と踊れない人の違いは、そのへんの認識の差にあるのではないかと思う。