弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

村山聖ではないけれど、「師匠は一生独身だと固く信じていました」。でも、師ほど家族を欲しがっていた人もいないようにも思う。先生、waiさん、おめでとうございます。

3月吉日、結婚祝いを兼ねた特別稽古には白桃会の前身であるドラネコ商会の面々もいらしていて、あいかわらずの、愛があったりなかったりするコメントが私としては大変たのしく、嬉しく、ためになった。このブログがまるで禅問答だという指摘をうけ、素直にどうしたもんかと思う。修行がそもそも禅問答のようなものだしなぁ・・。

このごろの稽古内容。

・「無足」「浮身」:位置を変えずにその場で寝返りを打つ、前転する、足を入れ替える。

・「エンドポイントコントロール」:動作に不動点(エンドポイント)をつくる。受けや払いは手を不動点として全身を連動させる。

・「胴の蛇腹の開閉による動き」:吸気で蛇腹を張り、呼気で縮む・抜くことによって「ふいご」のように発勁する。

・「スクワットせずにしゃがむ→立つ」:左右の足にそれぞれ虚と実の役を割り当てる。

・「陰の力」:足で床を「蹴る」かわりに、進みたいほうの足の力を「抜いて」方向性を作る。

ほか、短棒術など。当然のことながらどの稽古も別個のものでなく連関している。

身に付けようとするのはもっぱら身体の使い方・動き方のコツ(と、それらの元になる考え方)だ。技はそこから派生する。技名があれば説明の便がよいのだが、あいにく師の教える技には名前がない。動けばそれが技になると仰る。だから私は自分が身につけている技が(それがあるとすればの話だが)何なのかわからない。

何かができたとしたらそれは武術が(師が)していることで、何かができないとしたら癖や思い込みといった、私の中の何かが妨げているのだと思う。なので対人稽古でうまいこと発勁できたときなど、自分がしたことなのに他人事のように「すごいですよねぇ・・」と感心してしまう。聞いた人はおかしなことを言うとお思いでしょうが、すごいの主語は私ではないのだ。

読む人に「そうか、この人が武術に打ち込むのもわかるわかる!」と伝わるように書きたいのだけれど、今のところ全然うまくいってないのが心苦しいです。