弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のどうぶつ将棋

例えば、師と座取りをする。触れている両手の感覚を頼りに、攻めの好機を探りあうその時、私には師が何を仕掛けてくるか全然わからない。適当と思われるタイミングを見計らって特攻する自分がいるだけだ。いっぽう、師には私の意図が読めるという。組手もまた然り。

私思うに、相手の意図を読むから強いんじゃなくて、強いから相手の意図が読めるんじゃないでしょうか。読めるということが即ち強いということで、未熟な者がいくら相手の意図を読もうとしたって、はなから無理な話なのではなかろうか。自分の意図すら曖昧なのだ。自分でも説明できないものを、なぜ師が読めるのかといったら、意図というものを認識できる目があるからだろう。相手方の視点に立てる、立てないが、格上・格下ということそのものだという気がする。

うまく言えないけど、相手をわかりたいと思ったら、やっぱ自分が上達する努力をするしかないんじゃないか。自分で技をかけられることと、相手に技をかけさせないこと・かけられても対処できることは、それぞれ達成するものではなくて、できるときは全部同時に↑ゴゴゴゴ・・↑とできるようになるんじゃないだろうか。

これが、負け続けている私の所感です。