弟子のSです

武術の稽古日誌

太極拳はなぜゆっくり動くのか

自然は間違えない。

という事実はライナスの毛布のように私を安心させる。条件に従って花は咲いて散り、恐竜は繁栄し滅び、枝から離れたリンゴは直下に落ちる。起こるべきことが起こるということ。完全な規則。私も自然の一部としてその秩序のもとにあって、感情に揺さぶられようともどうしようとも、おまかせします、と言うしかないし、そう言って安心するように人間はできているんだと思う。

で、自分がその「間違えない自然」そのものである、そのものになる、それが太極拳なのではないかと、師の話を伺って一夜明けた今思うわけです。太極拳について、例えば師はブログに次のように書いておられます。

「フリーハンドでも直線や真円を描けるような精密性が太極拳にはあり、システムとして定規やコンパスに該当するものを身体の中に作るということが拳理なのであろう。しかし動力源に筋力を使えばブレが出る。代わりに何を使うのか? 落下力であろう。つまり筋力主導の動きを重さ主導に切り替えることを目指せばよいのではないか」

落下力、つまり重力を使えば直線が引ける。自然は間違えないからです。筋力主導から重力主導への質的な転換、これが私たちのしていることです。そのために自分の身体の中に流体を意識する。昨日の記事にも書いたように、流体は重力に従うものだからだ。

感情にとらわれていると我執というノイズが入りやすいように、速く動いたり、力任せに動いたりすることで反発力、慣性、反作用といった重力と相容れないノイズが入る。身体の中にある「精密で無謬な自然」に気づくためにはノイズを排していく必要がある。太極拳がゆっくり動くのは、ノイズを排して理そのものになるためである。

自然に従う流体となって動く。

「そうやって太極拳をしていると、自分が動いているんだか、動かされているんだかわからないような感覚になります。それが、そのものになるということです」

昨日師は教室でそう言われた。套路をしていてそういう感じになったことはある。その時すごく気持ちよかった。健康にもよさそうだった。

「本質がわかれば、太極拳をしていなくても、日常すべてが太極拳の動きになります」

套路をするように戦い、套路をするように生活する。

師の宿題、もうすぐ解けるだろうか・・・ふうふう。