弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

武術90分。久しぶりのマンツーマン稽古。

師があたりを払いながら歩いてくると、(怖ぇ・・)いつものことながら緊張で身がすくむ。

宿題の答え合わせ:「ロシアンタイからの展開」「交流会で学んだ技術を自分でアレンジする」「投げようとして足を外される問題への対処」。

シャドー組手(?):ものすごくリアルに相手の動きを想定して動く。一人稽古のやり方として。その後組手。最後に自由組手。

教わったのは、かからない技については二つの方向に努力する必要があること。

・かかるようにする

・かからないからどうするか。かけて、かからなかった後の最善手を考える

技がかかるようになるまで敵は待ってくれないからだ。

それから、思う技から技に無理なく進むために、つなぎ(当て身など)を入れていくこと。

組手では同じパターンでポカスカやられる。真似て逆をやろうとしてもうまくいかない。ズタボロだ。なぜ私はこんなにも当て身を食らい、敵の懐はこんなに遠いのだろう。ロシアンタイをかけたくても、そもそも腕に取り付くことができない。どこから手をつけていいのかわからない。

武術をやっていて、師の姿から私が思うことは、自分の力と調和していることが大事で美しいということだ。以上でも以下でもないこと。私は自分が武術的にへっぽこであるという現状は認識しているつもりだが、それでも「師について1年余、曲がりなりにも自分にできる精一杯のことをしてきて、身も心も時間も靱帯も武術に捧げているのだから多少なりとも見返りがあってしかるべきだ」=「強くなれないのは不当だ」=「私はそれなりに強いはずだ」みたいな、ずるい、取り引きっぽい思いにとらわれる傾向がある。弱いという現状を本当の本当には受け入れていないので、悩みもするし何だかいろいろ苦しい。別に楽しいから、やりたいからやってるだけなのにねぇ。

師がブログに「太極の思想」ということを書いておられたが、武術は具体的な技術であると同時に抽象的なものなのであって、具体性をとばして抽象性に辿り着くことはできない。

武術をやると、武術が身につく、という以上の意義は本来無かったはずなのです。

具体的な問いが正しく問えない、というのが私の問題。どこから手をつけていいのかわからない状況で、具体的に何をすればいいかがわかること。