弟子のSです

武術の稽古日誌

弟子と呼ばれし人々4

尊敬する人の一人に内村鑑三の弟子である矢内原忠雄がいます。経済学者、元東京大学総長であり敬虔なクリスチャンとして名を残した人です。今ではなかなか新刊本が手に入らないようですが、私はこの人の著作というか魅力によってキリスト教を好意的に理解することになりました(武術に出会う以前の話です)。この人のどこがカッコいいかというとキリスト者でありながら師・内村鑑三の唱えた無教会主義の教えに則り、洗礼を受けていないところです。内村鑑三自身は洗礼を受けていたことを考えますと、師の教えの純粋培養のような人なのです。

著作から引いてみます。

「私の信仰は内村先生からだけ学んだと言ってもよいのです。内村先生の教えが無教会主義です。・・私はその無教会信者の一人でして、洗礼を受けていませんし、どの教会の会員としても登録されてありませんから、基督教年鑑の信者統計の数の中にも入っていないと思います。しかし私自身はキリストを信じている者なのです。もっとも私は、洗礼を受けて教会員となっている人々はキリスト者ではない、などというのでは決してありません。その中にりっぱな人のたくさんおられることを知っています。要するに、基督者であるためには、キリストの福音を信ずることだけが条件であって、それ以外の形式的資格は必要な条件でないというのが、無教会主義の主張であります」(『キリスト教入門』)

ちなみに無教会主義というのは内村鑑三の主張であって、「無教会派」という一派がキリスト教に存在するわけではありません。キリスト教の本質は「キリストの福音を信ずる」この一事のみに存し、形式や資格はどうでもいい、という信仰の態度に関する言葉です。しかしその唯一の条件を守ることだけは命がけでなければならないことを矢内原先生は自ら実践された方でした(なので実際には矢内原の教えは厳しすぎてついていけない、という人も少なからずいたようです)。名を捨て実を取る、現世利益を求めない、意味的な価値を「よく生きる」という実際的な価値に転換させていくこと、私は矢内原先生によって武術に出会う準備をさせていただいていたようにも思います。

師ご自身に「佐山原理主義」と揶揄される私の態度のルーツはこういうところにあるのかもなあ。