弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

護身術+太極拳

雪のため人が来ず、生徒は私とたぶん槍が降っても休まないタフなSSさんの二人だけだった。後続の教室の生徒が来るまでと結局3時間以上教えていただくことになり、教わる側には贅沢な一日となった。

護身術。体の使い方いろいろ。仰臥して起きようとするのを押える、起きる側はぶつからないで動けるところを探す。

押された肩口を凹まして受ける、叩かれた肩を下げて受ける、これがホントの「肩すかし」。それをくらって崩れた相手を崩れた軌道のまま床に沈めていく。ぶつからないためには、自分を軸にしたコンパスで弧を描いて相手を螺旋状に沈めていくんだけど、

・力の入れ方がまずくてぶつかる

・固定した軸がつくれない

おそらくこの2点が問題でうまくいかなかった。

太極拳では套路の単鞭下勢まで、一つ一つの型の用法を丁寧に教えてもらう。動きが理そのものであれば意志の入る余地がないはずが、ダメだ。全然うまくできない。苛立ちばかりつのる。

勝手についてくる動きを利用することで、一個の指令で全体がまとめて動いてくれるシステムを作ることが出来ます。

また、こうしたシステムそのものになり切ってしまわないと、常にバランスを取ろうとか、手足を動かそうというような指令を出し続けなければならず、前記事にある「意識の名ばかり管理職化」が起こり、まったくリラックスできません。太極拳をやるほどに雑念に捉われる、という本末転倒なことになってしまいます。

こうした「結果として発生する動作」というのは、相手にとっては押されている、引かれている、というようなナマの力感がないため、感知しづらいものになります。

帯術と棒術もやらせてもらって、次の生徒が来たので稽古おわり。暗くなった公園を、人の足跡を頼りに雪をこいで進む。白白白白白。歩いている間中、うまくいかない稽古のことを考えていた。

私は鈍いから「勝手についてくる動き」がないから「結果として発生する動作」が起こらない。それってどの程度、私の武術の障害になるんだろう。師の教える武術を習得するのに致命的な欠落なのだろうか。

私は夜の海をひとり泳いでいる。遠くに見える灯台の明かりだけが頼りだ。私がそこに向かおうとしているのは、その灯台が私にはとても好ましく思えるからだけど、時々その明かりがちらついて見えにくくなる。そこが本当に私の岬なのかな。疑いが心に浮かぶのが一番しんどい。灯台は私を迎えに来ないし、そもそもこっちに来いとも言われない。「自己責任、自己責任」。でもいつもそこにあって、クルクルと岬の場所を示すのをやめないんだね。

灯台ならぬバス停にやっとこさ辿り着き、国分寺に出て夫へのチョコを買って帰宅すると8時半を回っていた。最終的には私の口に入るチョコなのであきらめる選択肢はなかった。