弟子のSです

武術の稽古日誌

祇園精舎の鐘の声〜

すべてのものは実体としては存在しない。さまざまな関係性のもとに原因と結果が無限に系列しているだけ。「私」という実体もない。それはその時どきの条件で心に現れる心象にすぎない。

ははぁ〜・・・・。

わざわざ大文字で書くほど「私(I)」をソリッドな個としてみる西洋的な価値観に慣れた身には、東洋思想の無常とか空性とか聞いても今までさっぱりピンと来なかったんだが、ここにきて何だかやたらと腑に落ちるようになり、それ系の本がおもしろくて仕方ありません。

そうは言っても、私が見ているのはいまだ師仰るところの「西洋的思考のフィルタを通した東洋思想」の枠を出ていないと思う。真の理解のためには既存の価値観を解体しなければならないというが、長年自分の中で培われたそれは本を数冊読んで解体するほどヤワなものではない。そこが座学の限界。なにしろ私はむかしNOVAで外国人講師に、君みたいなのをバナナっていうんだよ、外側が黄色くて中が白いからね、と言われたほどの「西洋かぶれ」なのだ(当時は愚かにもヘラヘラしてたけど、今思うと結構侮蔑的なコメントだったのかも・・・)。

しかしそうした趣味嗜好も含めて自分なので、西洋的なものとのハイブリッドでいけたらなと思う。まあ、解体した先の自分がどうなるかなんてわからないけど・・。今はなんというか、無常、というアイデアインパクトとおもしろさに浸っている。

「汝、健やかなる時も病める時もこの者を愛する事を誓いますか?」

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」

変わる、飽きる、先のことは流れ次第というのは、不変を願う人間にとっては苦痛の種でしかないが、師のブログの新しい記事を読むととてもポジティブな捉え方をされているのがわかる。ちょっと一杯のつもりが気がつけば終電前、大失敗だよぅー!みたいな中に創造と発見の可能性が潜んでいるのかもしれない。