弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

大塚にてマンツーマン30分+子供空手教室50分。

腱をつうじて左右の腕を連携させる稽古/太極拳の力の入れ方の確認。突っ張るでなく、ぐにゃぐにゃでなく、弾力を持ちつつ芯があること/左右分脚の用法。

空手は突きと蹴りの左右・手足のコンビネーション/飛び蹴り(私は全くできず)/足技(片足をすくい片足を蹴る)/型の用法/寝技(カニ挟み)/組手

Mくん5歳とはすっかり稽古仲間になり、集中の糸を切らさずにいい稽古ができる。相変わらず聞き捨てならない軽口を叩くが全然腹が立たない。

先生どうしは組手をしないの、と彼が言うので師と私とで組手をした。私の組手は子供の目にもやはり大暴れに映るのだろうか、終わってみるとMくんがなぜか「戦争だぁ!!」と息を荒げて興奮していておもしろかった。どうどうどうとなだめる。

それにしても私の組手はいっこうに上達しない。体が覚えている動きの貧困さに情けなくなる。師はどうやって動きを体に叩き込んだのだろう。組手のたびにストレスを溜めているが、感情はさておき、何か作戦を立てて実行しないことには本当にいつまでたっても埒が明かないと思う。

師が携帯を電車の中で落としたようだと仰るので、稽古を終えてから大塚駅に向かう。「拾った人が面白がって国際電話で海外の時報を聞いているかもしれない」と師以外の誰も思いつかないようなことを心配なさっているわりには他人事のような表情でおられる。ターミナル駅のない山手線のこと、夜になるまで出てこないかもしれないと係の人に言われ心が萎えそうになったが、自力で問い合わせたところ隣の巣鴨駅に届けられていた。

「よかったですね先生!」「巣鴨まで取りにいくのか・・・」どうしてそこで面倒くさがることができるのか、本当によくわからないがとにかく一駅歩いて携帯は無事師のもとへ戻った。

何事もなかったかのように座学。仏教系の大学を中退なさった師に問えば答えていただけるだろうと、最近とみにマイブームの仏教に関する質問をする。仏教では無我というが、我執を去り自我を確立するというからにはやはり我はあるのではないでしょうか、どうなんですか。

師の仰ることには、有る、ということと、無い、ということは本質的には同一である。

うーーーん。武術にはこのように、別の角度から見ることで同じ事象が真逆な表現で表されることがよくある。参考→http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-204.html

一つの宗教的見地にこだわるのもよくないと指摘されるが、そこは最終的にユニバーサルになる予定だからたぶん大丈夫。新しい考えに触れて自分がどう変化していくのかわくわくする。