弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

東洋思想の講義第2回。逍遥し、お話を伺い、逍遥し、お話を伺う。

「術」「名を与える」ことの意味について。インド神話に登場する神々(アスラ神族vsディーヴァ神族)について。行き当たりばったり、予測のつかないのを楽しむことについて。「目的意識を持つな」と言われるのは、数えきれないほどだ。

竹は外から手を加え、特性を活かすことによって(「術」を与えることによって)弓という武器になる。竹は(竹にとっては思いもよらなかったことだろうが)弓になることができる。

「では、私も何かになれるのですか」「そうです」

何か楽しいことに出合って、それが武術でなかったとしても、私が武術的な態度でもってそちらの方向にずんずん進んでいくことを、師は望んでいるし喜んでくださる。師の仰る自由を真に理解したとき、私は師からも自由になる。私は「何か」になっている。それを卒業という。

しかし卒業は、焦っては得られない。自由を焦って求めることじたい自由に反しているからだ。

どうしたらいいんだろう、何もしなくていい。こうしちゃいられない、こうしてていい。百万回繰り返されたやりとり。

少量の「たこわさ」で白飯を食べるのが好きなんだけど、たこわさ単体ではそんなに沢山食べられないので、自分で注文したたこわさを残したら師に「Sさんは愛するということを知らない」と言われた。

「これからどうなるんでしょう」「さあねえ」

人疲れ。