弟子と呼ばれし人々5
貧乏の極みから、百閒先生は師夏目漱石が自分に書き与えた大切な掛け軸を人に譲る決心をする。細君を先方に遣わし、微々たるお金を手に入れる。内田百閒『貧凍の記』より抜粋。
・・先方の主人は、軸を繰りひろげてしけじけと見ながら、かう云つたさうである。
「御紹介があるから、戴いては置きますが、漱石さんの物には贋物が多いのでしてね」
さうして巻き返しながら、
「どうも、をかしい所がある。失礼ですが、これで戴いておきませう」と云つて、その金を出したと云ふのである。
私は、その家の名はもとから知つて居り、またその店に這入つて買物をした事もある。主人に会つた事はないけれども、さう云ふ非礼の人とは知らなかつた。私が門下であつた事は紹介されてゐる筈であり、また紹介状を書いた人は主人の知り合ひなのである。
さう云ふ関係を無視してまで、目分の鑑識を衒はうとしたのである。
墨を含ませた筆をかかげてゐる先生の前に跪いて、紙の端を押さへた昔の自分を思ひ出して、私は口惜しくて涙がにじみ出した。すぐに取り返したくても、それは出来ないのである。その余裕があれば、初めから漱石先生の遺墨を持ち出さなかつたであらう。私はさう云ふ金に手をつけて、使つてしまつた。・・
「墨を含ませた筆をかかげてゐる先生の前に跪いて、紙の端を押さへ」る、百閒先生の神妙な表情がありありと思い浮かぶ。師といて緊張で畏まっている時にはいつも、ここのくだりを思い出す。
いっぽう、師漱石の弟子百閒に対する扱いはとってもテキトーであって、こんな俳句をやはり目の前ですらすら書いて与えたという。
春の発句よき短冊に書いてやりぬ
こんな「それがどうした」な句があるでしょうか・・・